郁斗が席に座った瞬間、店内はざわめきに包まれる。
郁斗は稀に客として席に着いては、キャストたちの成績に貢献してくれる。そこは勿論自腹でだ。
そして彼の事が好きなキャストたちは誰が彼に指名されるのか、それを常に待ち望んでいた。
最近郁斗が客として座る事などあまり無かった事もあって皆は自分が呼ばれるのではないかと期待する。
特に出勤した時に今度指名してくれるという約束を取り付けていた樹奈は、自分が呼ばれるのではと思っていたようなのだけど、太陽が郁斗の元へ詩歌を連れて行った瞬間ざわめきは一転、場の空気が凍りつく。
そして、
「い、くとさん……?」
席に連れてこられる際、相手が郁斗だと言う事は伏せられていたようで、自分がこれから接客をする相手が郁斗だと知った詩歌は面を食らっていた。
「白雪、ここに居るという事は、俺は客なんだ。俺を満足させられるよう接客をしてみせろ。いいな?」
「は、はい……」
そして、いつもと違う口調、違う雰囲気を纏う郁斗に戸惑いつつも、これは仕事、せっかく与えられたチャンスなんだと理解し頭を切り替えた詩歌は、
「初めまして、白雪と申します。よろしくお願いします」
先程の接客同様、きちんと姿勢を正し、綺麗にお辞儀をして見せた詩歌は郁斗の隣の席に腰掛けて接客を始めたのだ。
こんな事は、今まで有り得なかった。
太陽を始め、キャストやボーイたちも皆驚いている。
それだけ、詩歌は特別なのかと。
けれど、そんな風に彼女だけを特別扱いすれば、詩歌はこの『PURE PLACE』でやっていく事が厳しくなる。太陽はそれを心配しているのだが、勿論郁斗はその事も全て考えての行動だった。
「……おい、酒の作り方がなってねぇぞ」
「す、すみません……」
昨夜教わった通りに作ってはいるものの、まだ慣れない詩歌の手つきはどこか頼りなく、グラスに氷を入れる際掴み損ねてテーブルの上に落としてしまう。
慣れていない事も勿論あるのだけど、詩歌が萎縮している事も失敗する原因の一つであり、その原因というのが郁斗の豹変ぶりだった。
彼のその豹変ぶりには、太陽を除く全員が驚いている。それというのも郁斗は市来組に居る時以外は常に“紳士”な態度を心掛け、人柄が良く飄々としていて、人畜無害そうな人間で通っているから。
そんな彼が今は全くと言っていい程別人のように冷たい態度でふんぞり返るように座っている。
周りは皆別人を見ているような感覚に陥っていた。
詩歌もその内の一人ではあるものの、これは自分の接客を試す為に打っている芝居なのではと思い、泣きそうになりながらも一生懸命接客を続けていく。
「……おい、そんな葬式みたいな面してたら酒が不味くなるだろ? もっと客を楽しませろよ」
「す、すみません……」
何故か冷たい郁斗に萎縮してしまった詩歌は、話をしようにも何を話せばいいのか分からなくなり黙り込んでしまう。
「そんなんじゃ、客はすぐボーイを呼んでチェンジを要求する。お前はそれでいいのか?」
「……こ、困ります……」
「それなら、自分で何とかしてみせろ。さっき副島の息子たちの時は楽しそうにしてただろう? それとも、俺相手じゃ楽しく過ごすのは無理なのか?」
「……そ、そんな事、ないです。すみません、ちょっと、気持ちを切り替えます」
そう口にした詩歌は一旦俯き小さく深呼吸をすると再び顔を上げ、
「――失礼致しました。えっと、郁斗さんはどうして私を指名してくださったんですか?」
先程までの暗い表情から一変、笑顔を向けて話を始める詩歌。
「……そうだな、一つはお前の力量を見る為だ」
「一つは? それじゃあ、もう一つは……?」
「もう一つは…………客としてお前に楽しませて欲しいと思ったからだ」
郁斗のその言葉に詩歌は驚き、思わず目を見開いた。
依然として表情や態度は変わらないものの、先程までのトゲのある言葉とは違って優しさが感じられ、詩歌は徐々に自信を取り戻していく。
そうなれば酒を作る時のミスも減り、郁斗が煙草を吸おうとすれば、すかさずライターを手に取って火を点けるという気配りが出来るくらいの余裕が生まれていく。
そんな中、郁斗はスマホをポケットから取り出すと着信が来ているのか画面を見た瞬間溜め息を吐いて電話に出た。
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