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怜がそれに遭遇したわけではない。
その頃の怜は大会前の部活動の練習に精を出していて、ユウや怜どころではなかったのだった。毎日のように夕方まで練習をした後で、疲れた身体で家まで帰った後はテスト勉強に手を付ける事もなく、夕飯を食べると直ぐに眠っていた。
大会が終わり、数日後。クラスで友人達と話をしている時のこと。
「そーだ。知ってる?この間、吹奏楽の大会で事件が起きたらしいぞ。4組の、笹岡っていうやつ。吹奏楽の大会中に、乗り込んで来た生徒からいきなり、平手打ち喰らったんだって。」
「平手打ち…って、女?」
「女おんな。別の学校の生徒なんだけど、聞くところによるとその大会の日、その女わざわざ自分の習い事の休み取って待ってたらしいよ」
「なんだ、それー。大事件じゃん。」
友人が、のんきな声を出して驚いている。
「笹岡って、そーいうことするやつなの?」
「俺は、あんま知らない。一年のとき…ほら。たしか、何かで休みがちだっただろ。でも結構、外に出歩いたりはしてたらしいよ」
「お前話聞いてんの?」
友人からそう言われ、怜は一応頷く。
正直、さもありなんという感じでもあった。笹岡という奴は、校内でもああ言うことをしているんだし。
それよりも怜は、今しがた聞いた話で怜がかつて吹奏楽の演奏中にフルートを吹いていた様子を思い出していた。あの日、数ヶ月前の入学式の時。女子に混じって楽器を手に持っていた笹岡を、ぼんやり遠くから眺めていた。
「それくらい、向こうも溜め込んでたってことなんじゃない。」
「ふーん。顧問は?」
「さあ。俺も、友達から聞いただけだから。」
「…」
二人の間に、一体何が起きたのか。あの状況をぶち壊そうとしたという女は一体どういう人間なのか。ここにいる全員が「なんとなく」で胸の中にしまい込んでいるような気がする。
けれど怜に取っての現実は至ってごく正常に流れて行く。
もう直ぐ夏休みが始まる。怜は、中学の時には出来なかった旅行をしようと計画を立てていた。
行きたい場所は、決まっている。幼い頃に行った事のある房総半島へ一人で行ってみたいと考えていた。
隣の部屋にいる筈の妹は、ガリ勉をしていて良い成績を収めており両親からも進学に期待を受けている。怜も勉強が出来ないわけではなかったが、それ程の熱意がなかった。
とりあえず、今したい事は一人で計画を立て、そこへ一人で向かってみる事だった。その為の資金を得る為のアルバイト申請の用紙を、部屋で書き込んでいる。例えばパスポートや切符、ICカード、そういったものが自分の形を決めているとはまだ怜は考えていない。けど、少しずつ、遠くへ行く自由を手にして行っている気がする。一人で何かをするというのは最近の怜に取っては大事なことだった。
ボールペンを机に置き、怜はしばし考える。
あれからユウは、まだずっと、怜には話しかけて来ない。怜は書き終えたものを揃えると、椅子の上で大きく伸びをした後で、いつも聞いている音楽をiPhoneで流しスピーカーの電源を入れる。
それからふと、村岡から言われたことを思い出す。
もし怜が、おかしな状況になりユウから平手打ちをされたとしたら。
…そんなことが起こるとしたら自分はなんて言うのだろう。
それから、大会で笹岡はその後どうしたのか、演奏は台無しになったのか。笹岡は、流石に傷付いているのか。考えているうちその事で頭がいっぱいになっているようだった。
翌日、授業を終え、ホームルームの後の掃除が終わり、帰る支度を終えた怜が廊下を歩いていると、前方にある4組の教室の中から言い合いをする声が聞こえて来た。
怜がそちらの方を見ると、中から誰かが飛び出して来た。生徒がこちらを向く。怜と笹岡の目が合う。
笹岡は、にやっと笑ったかと思うと走り出した。後を追いかけて、一人の女子生徒が「ねえ!」と教室から顔を出す。多分あの生徒は、学祭の委員をしていた筈だった。
怜は、隣を走り抜けようとする笹岡の腕を掴むと、その身体を後ろから羽交い締めにした。思った通り、体格差があるのであっという間に捕まった。
「ちょ、何すんだよ!」
「田中さーん。捕まえたよ」
怜がそう言うと、笹岡が怜の方を見上げて睨む。怜とは直接話した事のない4組の田中は、少し戸惑っているようだった。
笹岡は、大人しくなるどころか本気で抵抗しようとしているようだった。怜の胸の中で、ジタバタ動き出したかと思うと、少し動かせる腕を怜の身体目掛けてめちゃくちゃにぶつけて来ようとする。
「いて!」怜は思わず叫ぶ。
「お前!おまえは、関係ないだろう!」
「関係ないって思う?」
「は…。」
怜は何故か、その笹岡の反応を面白がっている。
自分が今、笹岡の動きを止めている。いつも唐突で、不可解な事ばかりする笹岡であっても、腕力を使えば簡単に…
「いだぁっ!!」
その時、笹岡が思い切り怜の顎に向かって頭突きして来た。思わず、怜は手を離す。だが、笹岡の方も無傷では無かったらしく、ぶつかった頭を手で抑えながら怜を絡み付けると「お前、バカか」と呟いている。
「笹岡くん。
あのさ。とにかく今日か明日中にちゃんと持って来てくれる?」
いつの間にか側に立っていた田中に声をかけられ、笹岡は「うん」と答える。そうして呆然と突っ立っている怜を置き去りにして、笹岡は廊下の向こうへと歩いて行った。
「おい」
「ん?」
笹岡が行った先は、やはり音楽室だった。
部活動は休みらしく、誰もいない教室の窓際に立ち、外の様子を眺めている。
「お前、集金滞納してたらしいじゃん」
怜がそう言うと、笹岡は外を眺めたままで「忘れてたんだよ」と応える。
「用紙、持ってるの?ほら。」
怜が田中から受け取った紙を差し出すと、怜は振り向き、無言でそれを受け取った。
「なんか、気に入らねー。」
「なにが。」
「ん…何でもない。」
笹岡は下を向き、受け取った用紙を手でぴらぴらとさせている。
「…フルートって、いつも持ち歩いてるの?」
「え?まさか。」
怜は教室を見渡し、吹奏楽の楽器が置いてある辺りを眺める。
「気になるの?そう言えば、演奏聞いたって言ってたね。」
「うん。触った事ないから、どんなものなのかなって」
「…まあ、サッカーで言うとボールのようなものだよ。」
「お前適当なこと言うな」
怜が突っ込むと、怜は真剣な眼差しで楽器の方を見る。
「ん?お前がいつも、ボール抱き抱えてるのかっていう話。
…なあ。女子って何で、強くなるのかと思わない。」
「あ。さっきの、田中のこと?」
「田中っていうか、『田中達』だよ。
まあ、確かに滞納してた俺が悪いんだけどさあ。別にそれくらいでスケジュールが滞るなんて事、ないだろ。何であんな風に詰めないとならないんだろうって思うと腹が立って」
怜は笹岡のその顔を見て笑い出しそうになる。
それに気付いたのか、笹岡は不満そうな顔で怜を見る。
「…なんだよ」
「おまえ、さあ。それでダッシュしてたの?」
「そうだけど」
怜はたまらず、笑い出してしまう。
怜が笑っている姿を、呆気に取られて笹岡は眺めている。暫し笑った後でそれが収まると、体裁を整えてから怜は「仕方ないだろ。」と言う。
笹岡は黙っている。
「田中さん達は、真面目なんだから。学祭を、本気で盛り上げようとしてるんだから、そりゃ怒るよ。お前が悪いよ。笹岡、案外お前って不真面目なんだな」
「そういうこと言ってるんじゃない。」
「え?」
「俺は、だから…熱量の事じゃ、なくって。
本気でやってるなら、本当に分かってる人なら、俺がやってる事でまず判断してくれる筈と思ってたんだよ。」
「…」
「俺だってちゃんと仕事やってるわ。サワグチは別に、4組じゃないだろ。」
怜は急に名前を呼ばれて、ぎくっとする。
何だ。不真面目でも、いい加減な訳でもないのかもな。ちゃんとこいつなりの訳があったのか。
「まあ、確かに田中さんって怖そうではあるな。」
「だろ。数人で俺を、詰めて来てたんだよ。明日には持ってくると言ってるこの、俺を」
怜は思わず笑う。それにつられて、笹岡も笑った。