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まさか説明だけで♡10以上もらえるとはね。(貧しい心)
付き合ってから初めての接吻だよ・・・うへへ
窓の外では、ヨコハマの夜景が宝石を撒き散らしたように輝いている。けれど、事務机の上の小さな電気スタンド一つだけを残して消灯された武装探偵社のオフィスは、まるで深い海の底に取り残されたかのように静かだった。 カチ、カチ、と壁の時計が時を刻む音だけが、やけに大きく響く。
先ほどまで残っていた国木田が「戸締まりは頼んだぞ」と堅苦しく言い残して去っていき、広い室内には、今や二人きりの気配しか残っていない。
与謝野晶子は、自席でカルテの整理をするふりをしながら、横目で隣の席を伺った。 そこには、いつものように背もたれに深く体重を預け、手元のラムネ菓子を口に放り込んでいる名探偵――江戸川乱歩の姿がある。
(……帰らないのかい、乱歩さん)
喉元まで出かかった言葉を、与謝野はそっと飲み込んだ。 自分たちが「付き合う」という形になってから、数週間が経つ。きっかけは、乱歩からのあまりにも唐突で、それでいて当然のような告白だった。
「僕の隣にいるのは君が一番相応しい」と、まるでお気に入りの駄菓子を指差すような軽やかさで言われ、与謝野は思わず承諾してしまったのだ。 だが、付き合っていると言っても、日々の業務が変わるわけではない。相変わらず乱歩は事件を解決し、与謝野は怪我人を解体(治療)する。 ただ、今日のような「二人きりの居残り」が、以前よりもずっと重い意味を持つようになったことだけが、決定的な違いだった。
「ねえ、与謝野さん」
突然名前を呼ばれ、与謝野の肩が僅かに跳ねた。 いけない。動揺が表に出ている。彼女は努めて冷静に、いつもの「死神」と恐れられる医者らしい、不敵な笑みを口元に浮かべて振り返った。
「なんだい、乱歩さん。お菓子が切れたんなら、あたしの引き出しに金平糖があったはずだけど」
「そんなんじゃないよ。……君、さっきから全然ペンが動いてない」
乱歩は椅子をくるりと回転させ、与謝野と正面から向き合った。 彼は眼鏡を外している。その翠色の瞳は、いつも以上に深淵を見透かすような輝きを帯びていた。 与謝野はふん、と鼻で笑ってみせる。
「失礼だね。これでも今日の治療記録を整理してる最中さ。乱歩さんこそ、いつまでそうして座ってるんだい。社長をお待たせしちゃいけないだろう?」
「社長には、今日は少し遅くなるって伝えてある。……それよりさ、与謝野さん。君、さっきからずっと僕のこと意識してるでしょ。心拍数が上がって、呼吸が少し浅くなってる。超推理を使うまでもないよ」
核心を突かれ、与謝野の心臓が跳ねた。 だが、ここで素直に認めるのは彼女のプライドが許さない。彼女はあえて椅子の背にもたれかかり、足を組み直して、余裕のある女を演じてみせた。
「……買いかぶりだよ、名探偵。あたしがそんなに初心に見えるかい? 緊迫した戦場を何度も潜り抜けてきたんだ。少しくらい二人きりになったからって、動揺するはずがないだろう」
「へえ、強気だね。いいよ、そういうの嫌いじゃない。……じゃあ、試してみる?」
乱歩が椅子から立ち上がり、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。 革靴が床を叩く乾いた音が、与謝野の鼓動とシンクロした。 乱歩は与謝野が座る椅子の肘掛けに両手を突き、彼女を閉じ込めるような形で顔を近づけた。 遮るもののない、至近距離。
与謝野は必死に表情を取り繕った。眉一つ動かさず、挑戦的な視線で彼を見上げる。内面では嵐のような動揺が吹き荒れ、胃のあたりがキュッとなる感覚があるというのに。
(大丈夫だ、あたしは与謝野晶子だ。乱歩さんに気圧されてどうする。……たかが、キスくらい。大人の付き合いなんだから、いつかは通る道だろう)
そう自分に言い聞かせ、彼女は薄く唇を吊り上げた。
「いいよ、やってごらん。乱歩さんにそんな度胸があるんならね」
その言葉は、彼女なりの精一杯の虚勢だった。 乱歩は面白そうに目を細める。
「度胸か。与謝野さんは勘違いしてるね。僕は名探偵だよ? 答えがわかっていることに、躊躇なんてする必要がないんだ」
乱歩の顔がさらに近づく。 彼の髪から漂う、微かな甘い菓子の匂いと、石鹸の香り。 それが与謝野の嗅覚を支配し、思考を麻痺させていく。 これまでは、この距離に踏み込まれても「乱歩さんだから」という理由で流せていた。だが、今の二人の間には「恋人」という明確な境界線が引かれている。 その事実が、彼の体温や吐息を、耐え難いほど生々しいものに変えていた。
乱歩の手が、そっと与謝野の頬に触れた。 指先は意外なほど熱く、そして繊細だった。
「……与謝野さん、まだ『余裕だよ』って顔するつもり?」
「……当たり前、さ……。この程度で……」
声が震えた。 乱歩の指が、彼女の耳たぶをなぞり、首筋へと滑り落ちる。 与謝野は反射的に目を閉じようとしたが、それを踏みとどまった。ここで目を逸らしたら、自分の負けだ。そんな、子供じみた、けれど彼女にとっては切実な意地が、かろうじて彼女の視線を繋ぎ止めていた。
しかし、乱歩の顔が、唇が、触れ合う寸前の位置で止まったとき。 彼の吐息が自分の唇に直接かかるのを感じた瞬間、与謝野の「余裕」のダムは音を立てて崩壊した。
(あ、ダメだ。これ、本当にするやつだ)
頭の中にあった理屈や虚勢が、一瞬で真っ白に吹き飛ぶ。 与謝野の頬は、自分でもわかるほど一気に熱を帯びていった。雪解けのように冷徹だった表情は崩れ、大きな瞳は潤み、視線は泳ぎ、呼吸は目に見えて乱れた。 彼女は思わず乱歩の胸元を、突き放すでもなく、すがりつくように握りしめる。
「……っ、乱歩、さん……」
掠れた声でその名を呼んだとき、彼女の顔は耳の裏まで真っ赤に染まっていた。 いつもの凛々しさはどこへやら、そこにはただ、初めての行為に怯え、期待し、激しく照れる一人の女性としての姿しかなかった。
乱歩はそれを見て、満足げに口角を上げた。
「やっと観念した。……ねえ、与謝野さん。名探偵の予測を裏切るくらい、今の君、すっごく可愛いよ」
その言葉が、与謝野にとっての最後の一撃だった。 彼女はたまらず目をぎゅっと瞑り、首をすくめる。 その瞬間、柔らかい感触が、彼女の唇にそっと重なった。
それは、羽が触れるような、あまりにも優しい口づけだった。 けれど、与謝野にとっては、これまでの人生で経験したどんな劇薬よりも、脳を揺さぶる衝撃だった。 しんとした社内に、二人の重なり合う吐息の音だけが溶けていく。 数秒、あるいは数十秒。 乱歩がゆっくりと唇を離すと、与謝野はまだ目を開けることができず、ただ熱い顔を伏せて震えていた。
「……もう。与謝野さんってば、息止めてたでしょ」
乱歩の、少しいたずらっぽく、それでいて慈しむような声が頭上から降ってくる。
与謝野は、真っ赤な顔のまま、ようやく片目を開けて乱歩を睨んだ。睨んだつもりだったが、潤んだ瞳のせいで、それは少しも威圧感を持たず、むしろ甘えるような視線になってしまっていた。
「……乱歩さんの、莫迦。……推理通りだったんだろう? だったら、わざわざ言わなくたっていいじゃないか」
「言わなきゃ伝わらないこともあるでしょ。……それに、君がこんなに赤くなるなんて、僕の計算でも『最高値』を更新しちゃったよ」
乱歩はクスクスと笑いながら、もう一度、今度は彼女の額に口づけを落とした。 与謝野はもう反論する気力も失せ、彼の胸に額を押し当てる。
「……卑怯だよ、あんたは。いつも、あたしの見せたくないところばっかり暴いて……」
「いいじゃないか。探偵なんだから、隠し事は見つけるのが仕事だよ。特に、恋人の隠し事なら、なおさらね」
乱歩の手が、与謝野の背中に回され、優しく引き寄せられる。 与謝野はその腕の中に、ようやく自分の居場所を見つけたような心地で、身体の力を抜いた。 夜の静寂が、今度は心地よく二人を包み込んでいる。
しばらくの間、二人は言葉を交わさず、ただ互いの体温を感じ合っていた。 やがて、与謝野が少しだけ顔を上げ、まだ赤みの引かない顔で、けれど少しだけいつもの不敵さを取り戻して言った。
「……次からは、あたしからするからね」
「へえ、できるの?」
「……。名探偵の予想、今度こそ外してやるから」
そう言って彼女が再び乱歩のシャツをぎゅっと掴むと、乱歩は嬉しそうに目を細めた。
「楽しみにしてるよ、与謝野さん」
誰もいない探偵社。 消え残った電気スタンドの明かりの下で、二人の影が一つに重なり、静かな夜は更けていった。 明日になれば、また「名探偵」と「女医」としての日常が始まる。 けれど、今この瞬間、この部屋にいたのは、ただ恋に落ちたばかりの、不器用で、愛おしい二人だけだった。
・・・書いてるこっちが恥ずかしくなってきた。