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ばたこ
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5年後
俺は大学を卒業し すっかり社会人になった
慣れなかったスーツも今では見慣れてしまうほど着こなしている
俺はあの時から 一度も仁人に会っていない
それもそのはず
九州に引っ越してしまったからには
会う術も 会いに行く勇気もなかった
彼のことを思い出さなかった日はない
初めて会ったあの日から 彼に惹かれ
彼に思いを寄せていた
このことは 俺の心の中に留め続ける
引っ越してから 1週間もしないうちにそう決心し 勉学に励んだ
そして 社会人になったいま 彼のことを忘れるわけもなく
毎日彼との過ごした日々や 彼の歌声を脳内で再生させる
仁人 元気にしてるかな…、
何も言わずに去った俺が虚しくなるのもおかしいが
あのときにまた戻れたとしても 同じ選択をすると思う
この選択自体に 後悔はない
でも……
もう1度 聴きたい。
叶うはずのない願いを胸に今日も出社する
「じゃあ お先失礼します!」
勤務を終え 電車に揺られながら窓の外を見る
退勤する時に外の景色をみると毎回思い出す
仁人の歌っていた あの歌詞を
「少し湿った夕方の匂い」
今思うと高校生の彼がこんな素敵な歌詞を書いていたことに感心する
流れるようにそのまま 続きの歌詞が脳内で浮かび上がる
この歌詞を書く時に何を思って書いたんだろう
思えば考えたことのなかったことに深く考え出す
孤独や寂しさ 不安を感じる歌詞
でも そばにいて欲しいと素直な願いや 少しばかりの希望も 感じる
5年越しに彼の歌詞に感動する
「ふーっ、 つかれた。」
自宅へ入り ジャケットを脱ぎ
力が抜けるようにソファへ座り込む
ネクタイを緩めながら 疲れの気晴らしに
普段ならつけないテレビをつける
「そういえば最近 テレビとかSNS全然見てないな」
大学生になってからは 勉強や人付き合いに追われ
社会人になってからも 仕事や上下関係に追われ SNSやテレビを見る暇がなかった
画面には 音楽番組 が映っていた
「続いて 歌ってくださるのは この方です〜」
MCの人の声と共に画面が切り替わる
そのとき 一瞬にして 鼓動が高鳴り 息が詰まる
「どうも こんばんは ー」
「シンガーソングライターの”吉田仁人”です」
「え」
もう見れると思っていなかった彼の姿
もう聞けると思っていなかった彼の声
彼が喋り出す1文字目と共に体が前のめりになり 瞬きをすることでさえ 忘れる
「えっと、 今日 歌うのは 届くことのない 愛する人への思いを描いた 曲です。」
「言葉にできないほどの 強い思いを抱いて海の底で あなたを愛し続ける そんな、切なくて 情緒的な ラブソングです。」
すっかり大人びていて 声もわずかに低い
でも あの頃と 変わっていない
綺麗な艶のある髪の毛 引き込まれるような瞳 透き通るような声 つい見惚れてしまう愛らしい えくぼ
「…じんと 、」
届くことなんてない それでも ずっと会いたかった彼を 画面越しで目の前にし
反射的に 声が漏れる
「それでは 聞いてください 」
『藍』
カメラが彼の指先に向く
あの時と変わらない 白くて綺麗な指
その綺麗な指の腹で 軽やかに弦を弾く
彼のブレスと共に 体が震え上がる
「あなたはとても素敵だから_」
彼の歌声を聴いた瞬間 涙があふれる
なにも 、 なにもかも 変わっていない
芯があるのに透き通るような歌声
歌う時に 眉間に皺がより 少し苦しそうに歌う
「光さえ届かない この海の底で _」
俺は彼の歌を 瞬きも呼吸もすることなく
静かに でも脳裏に焼き付けるように
聞きすました
「あなたを愛している_」
俺はその言葉を聞いた瞬間 空気中に酸素が一気に戻ったかのように 息をする
乾ききったであろう目には 疑うほど涙が溜まっていた
急いで涙を拭い 息を整え また画面を凝視する
「信じてみるもんですね 、笑 」
「ありがとうございました !」
彼のどこか切なそうな笑顔の画面からMCの人へ画面が切り替わる
MCの人は 彼の最後のコメントに不思議そうな顔をしているが 何事も無かったかのように進行を続ける
彼の出番が終わったあとも番組は続く
でも 俺だけは 彼の最後の
あの笑顔で 時間が 止まっていた