この作品はいかがでしたか?
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「…ねぇ、○○。今日はママとお出かけしよっか。」
ザァザァと分厚い紙を破くような激しい雨音が響く日、ママはあたしの顔も見ずにそうぽつりと言葉を零した。朧げにしか思い出せないそ
の記憶だが、髪のすき間から覗くママの瞳は取り返しのつかないほど暗く真っ暗に染まっていたことだけは今でもよく覚えている。
『おでかけ?いきたい!』
はじめて告げられた“ママと一緒にお出かけ”という単語に意識を全て引っ張られ、喜びの音を舌にのせる。
赤色に塗りつぶされたママの長い爪に引かれるまま歩みを進め、刺すような雨が降り注ぐ外の世界へと踏み出す。見慣れた近所の大通りを抜けたその瞬間、車や建物の景色が視界からゆっくりと離れていき、人気のない路地裏に入っていった。
『…ママ?』
流石に不自然だと気付き、ママの逆鱗に触れぬよう恐る恐る声を落とす。
雨音が今新たに降り始めたかのように勢いを盛り返し、あたしの言葉を隠す。土や水の混じった湿り気のある雨の匂いが世界を包んでいく。
「…じゃあね。せいぜい一生懸命に生きれば。」
冷ややかに淡々とした口調でそう突き放され、それまで繋いでいた手が解かれる。
え、と驚いて目を白黒させている間にママは来た道をまた戻っていく。あたしを一人置き去りにして。
『や、やだ!まって…おいていかないで!』
その行動に幼いながらも捨てられると理解し、必死に泥だらけの水たまりの中を駆ける。びちゃんと跳ね返った水滴が膝にこびり付き、ザラザラとした砂に変わる。
『あたしいい子にする!わがままいわなから。』
『おねがい』
湿った空気と嗚咽が喉を詰まらすのを我慢しながら、震える声でそう言葉を吐く。
「うるさい!」
ママはそう泣きそうな声で叫ぶと、乾いた音をたててあたしの頬を叩いた。突然の痛みに呆然としながらママを見上げると、右手を振り上げており二発目の用意があることを示す。
…─来る、!!!
『…っ!』
そこで目が覚めた。
じっとりと肌に滲む冷や汗が気持ち悪い。最悪の目覚めに眼球の表面に水の膜が張り付いていた。吐き気のように腹の奥がムカムカとする。
『……いざな?』
ふと部屋の違和感に気づいた。
静かすぎる部屋。
そこは眠る前に見た車の中でも、馴染みのあるいざなと過ごしたあの家でもない、ただただ真っ白な部屋。その部屋のベッドにあたしは寝かせられていた。
『いざな…いないの?』
譫言のように何度も彼の名前を呼び、周りを見わたす。
まだ夢の中なのだろうか。
寝起きで意識と肉体が上手につながっていないのか、体が思うように動かず、思考が上手く働かない。頭が酷く混乱しパニックになる。ぐるぐると色々な思考が巡るが不安によって全て塗りつぶされ、透明な二粒の水滴が瞬きと一緒に零れ落ちる。
「…○〇?起きた?」
すると突然、カチッと錠の外れる音があたしの嗚咽の籠る室内に響く。
微かな冷気と共に顔を出した彼の顔を見た途端、ふと感情の糸が切れ、火がついたように泣き出す。
「なに、なんで泣いてンの?」
困惑したような表情でオロオロとあたしを抱きしめるいざなにギュッと力強くしがみ付く。いざなが来てくれた安堵がまたあたしの涙腺を緩ませる。
『…こわいゆめ、みた』
涙で息が詰まり、過呼吸に似た息遣いのまま言葉を紡ぐ。
乱れた呼吸は何度も何度も喉を詰まらせ、言葉を区切る。
「怖い夢?」
問い返されたその言葉に、いざなの腕の中で小さく頷く。
ぐすん、と掠れた嗚咽を零すたびに痙攣のように震えるあたしの体を、いざながグッと抱き上げる。脳が上へ上がる感覚に少し酔いながら顔を上げると、長い睫毛に囲まれた紫の目と視線が絡む。眠る前とは違う、濁りの伏せた目に安堵を覚えた。
『…ここどこ?』
「ホテルってところ。…ほら、下見てみろ。」
その言葉を合図に、閉ざされていたカーテンを開けられ、薄い青色が広がる空が視界に広がる。ギラギラと光る太陽と反射して眼球を囲む眩しさに軽く目を瞑る。
『…わあ!』
そのまま半分閉ざして視界でいざなが差す方向へ目を向けると、たくさんの人たちが歩く姿や建物がいつもよりずっと小さく見え、驚きの声をあげる。
人、車、木、犬。そして建物。
目に映る者すべてが豆粒程度の大きさで、ワクワクと腹の底からせり上がるような思いを感じる。
だけど大通りと呼ばれる広い道から外れた薄暗い路地裏が視界を掠ると、先ほど見た夢とずっと昔に感じた喪失感がゆらりと脳裏に蘇り、たまらない憂鬱が心の奥深くに迫ってくる。いやな懐かしさが胸にこみ上げ、その姿形のすべてが心の中にある思い出の像と焦点を合わせた。
─…隠し事は嫌い。ママもパパもずっとあたしに隠し事して、最後まで教えてくれなかった。あたしたち“家族”なのに。
なんで捨てられたのかも、なんで愛されなかったのかも。何も教えてくれなかった。
─…嘘は嫌い。時々家に来る、黒い制服のような服をきっちりと纏ったお巡りさんはいつもあたしの頭を撫でて言ってくれた。
「絶対に助けてあげるからね」って。
だけどあのあと一度も来なかったし、あの状況が変わることも無かった。
─…だけどいざなは、あたしに何でも教えてくれるし嘘もつかない。
ちゃんとあたしのこと守ってくれるし、捨てないでくれる。あの地獄から助け出してくれた。
「…○○?」
窓から視線を外し、いざなの腕の中に顔を埋めていると、心配の音を乗せたいざなの声が平らな煙みたいに目の高さを漂う。
『…ねえ、なんであたしのことおそとにだしてくれたの?』
外に出てからずっと気になっていた質問。きっといざななら答えてくれる。そんな期待を込め、いざなの瞳を覗き込みながら問いかける。
「あー……」
いざなは一瞬言葉を詰まらせ、考えるように視界を上へ向けると、言葉を紡いだ。
「…別に○○は知らなくていい。大人の事情ってやつ。」
その言葉に、心の中にガラスのような亀裂が入る。
え、と掠れた声が喉を通り、全身の血が冷えわたって、動悸が高まる。世界から色が抜け落ちて、視力が低下したように周りがぼやける。
「オレの言う事だけ聞いて、オレのことだけを知っとけ。」
いつもならすぐ頷くその言葉に、今日が上手く相槌が打てなかった。
なんで、というやり場のない不満が体の中を駆け巡る。考えを深めるたびに行き場のない無念さが自分を押し包んでくるのがわかり、胸の奥が段々と冷えていく。
『やだ!かくしごときらい!』
いざなに抱き上げられたまま、手足をバタバタと暴れさせながら必死にそう抗議する。裏切られたに似た何とも言えないドス黒い感情が胸を蝕む。
「世界には○○が知らなくていい事とか、触れなくていい事がいっぱいあンの。」
本当は分かっている、知っている。
あたしが知らないほうがいい事がたくさん外で起きていることも全部。
外の世界は怖いって教えてくれたのはいざなだし、いつものその怖いモノ守ってくれるのはいざなだった。
『やだああぁあ!』
でも大好きな人に隠し事されたというショックが大きすぎて、いつもなら素直に頷けるいざなの言葉が脳から薄れていった。底知れぬ悲しみに誘い込まれる。
重く抑えつけられたような気持ちのまま、体を暴れさせ、思ってもいない怒りの言葉を投げつけてしまう。
「○○、…」
『やだ!いまのいざなきらい!』
『…だいきらい!』
何かの言葉を紡ごうとしたいざなの言葉を遮り、口が勝手に声を作ってしまった。
続きます→♡1000
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