見るひとが見なければ分からない数字の羅列。百万単位の数字が動こうともどうも思わない。初心者は、大金を動かすプレッシャーに負けて大概失敗する。資産運用は脆弱な自分との戦いなのだ。
携帯で日課である株のチェックを終え、おれはキッチンに向かった。ハンドドリップでコーヒーを淹れるのだ。きちんと黒いエプロンを巻く。こういうのはかたちから入るのが大事だ。それなりの道具を使わないとテンションが上がらない。
冷蔵庫を開き、さて、今日はどの豆にするか、コーヒー缶を物色する。……莉子。きみが、ブラックコーヒーが苦手なのは知っている。会社の給茶機でコーヒーを入れるけれど、いつも冷蔵庫にマイ牛乳を入れてミルクを足しているよね。自分用のマグカップなんか用意して。
「ふふ。分かってるよ莉子……」おれは莉子に向けて笑いかける。「ああ……そんな、焦んないの。きみのために美味しいコーヒーを淹れてあげるから。慌てない慌てない……」
おれはある缶を手に取り、「分かった……分かったよ莉子……うんうんきみは甘いのが好きなんだね。じゃあ、モカブレンドにしようか。ミルクとお砂糖をたっぷり入れても芳醇な旨味が残る……きみにぴったりのコーヒーだと思うよ」
それから道具一式を取り出し、先ずはデジタルスケールで……おっとその前に手を洗わなくてはな。きれいな水で手を洗うと、こころまで清められる気がする。気分がしゃんとして、整うんだ。
さて。改めて作業に取りかかろう。デジタルスケールでコーヒー豆を計量する。二人分だから20グラム……いやきみはたっぷりマグカップで飲む子だから25グラムがいいね。
それからコーヒーを受け入れるドリッパーに、ペーパーフィルターをセットする。違え違えに紙を折るやり方に昔は苦戦したがいまはお手のもの。鼻唄だって歌えるのさ。曲目はきみが大好きな「shock of lightning」。いまは解散したオエイシスの歌さ。
莉子。きみのことを思うと胸が熱くなる。いったいきみは、どんなふうにひとを愛すのだろう。会社員という仮面を取り外した、本当のきみをいつかぼくに見せて欲しい。お願いだよ……きみとぼくの約束。
続いては豆を挽く。みんな挽くのがめんどいから挽いた豆が巷では売られているが。おれからすれば信じられない事態だ。アイスクリームを室温で売る愚行に等しい。
豆は、鮮度が命なんだ。挽き立ては味が違う。天と地ほどに違う。だからおれは毎回計量して豆を挽く。きみに美味しいコーヒーを飲んで貰うために。
自動で挽く機械があるのも知っているけれど敢えて手でハンドルを回す面倒なミルを選ぶのはおれのこだわりだ。こうして手が疲れるくらいに作業を行いきみのことを想う。誰にも邪魔されないおれだけの幸せ。
挽いた豆を、フィルターを乗せたドリッパーに入れていく。
そして、やかんで湯を沸かす。ぽこぽこと沸騰してからすこし冷ます。95度が適温だ。そのやかんから、湯を口の細いドリップポットに移せばいざ参戦。腕の見せ所となる。コーヒー粉を蒸らし、それから抽出する作業に移る。
湯を注げばドリッパーのなかでコーヒー粉が饅頭のように膨らむ。格調高い香りが立ち、こちらの欲望を煽ってくれる。……たまらないな莉子。おれは、いつかきみとこの香りを堪能することが楽しみでならない。……莉子。きみはおれのものだ。誰にも渡さない。
きみが、会社の誰にもこころを許さないのは明らかだけれど。大丈夫……ぼくはきみの味方さ。きみが、どんななにをしでかしたとて。世界中の誰をも敵に回す行為をしでかしたとしても、おれはきみの味方だ。ぼくがきみを裏切ることなど、天地がひっくり返っても起こり得ない。
「大丈夫……きみはぼくのもの……」
きみに向けて語りかけながらドリップポットを持ち、円を描くように、ドリッパーに湯を注いでいく。……焦らず、ゆっくり。焦りが禁物なのは世界においても共通だ。
湯を注ぎ終えると息を吐いた。……待っていて莉子。もうすぐ……きみがそろそろ本格的に誰かを信用しなければと思う頃合いで、きみを呼ぶから。そのときにきみは……真の愛に目覚めるんだ。本当に自分を愛し抜く男の存在によって。
おれは二人ぶんのカップにコーヒーを注ぎ、きみのぶんはそう……ミルクとお砂糖をたっぷりと。あまったるいカフェオレを作ってあげる。いつか本当に、きみが飲んでくれる日が来るまで。
暑い、暑い真夏の夜だった。こころは、凪いだ海のように静かだった。莉子、きみを愛している。きみの励ましと笑顔を受け止めた瞬間、きみという存在がぼくのなかに根を張った。自分では気づかない、深い深い領域にまで。
外では激しく鳴いている。まるで本当は、きみが好きだと泣き叫ぶおれの胸中を代弁するかのように。
二人ぶんのコーヒーを飲み終えると、おれは携帯を開き、きみに語りかける。飲み会でのワンショットだが、ふとした瞬間に撮られたのだと思えないくらいに美しい。……顔の良し悪しというものはこうしたスナップ写真が残酷にまで暴き出す。
そしておれは微笑む。写真を加工し、きみとおれが並んで笑うさまを作り上げ……そう、おれときみはお似合いさ。本当はそう……誰のことも信用していないところなんかそっくりさ。きみとぼくは似た者同士。運命共同体……なんだよ。
音を立ててきみの写真に口付ける。この写真のなかはまだ訪れる未来を知らない。自分がどんなに愛されているかを知らない、無垢で無自覚な女の子。液晶のつめたい感触を残す唇に触れてみる。
待っていて、莉子。もうすぐ……もうじききみのなかの空洞を、ぎちぎちに埋めてあげる。おれの愛に触れれば、ますますきみは輝くはずさ。美しい奇跡がその胸に色づく、尊い一瞬を見せておくれ。
おれは再びきみに口づけ、やがて笑った。「ああ……そんな顔しないの莉子。大丈夫。ちょっと運動してくるだけだから……終わったらきみのことを抱き締めてあげるから。
愛しているよ莉子。きみがおれの愛に気づく日まで、毎日おれはきみに語り続けるよ。きみはぼくのもの。……きみの真の美しさを引き出せるのはこの世界に、おれだけ」
それから日常の雑務を終え、携帯を充電する前におれはきみに語りかける。
「おやすみ莉子」きみに口づける。「また明日話そうね。ぼくたちの関係は内緒だよ。……しぃー。あまり大きな声を出さないで。中野さん辺りに気づかれちゃう」
おれは声を立てて笑い、「ああ莉子。そんな顔をするきみのこともおれは大好きだよ。じゃあ……おやすみ」
そしていつかきみと眠るために用意をしたクイーンサイズの高級ベッドで眠る。……いつか必ずきみをものにする。大丈夫。そのために出来ることはすべてしてきたのだから。
興奮にふるえてしまう。だが冷静なほうの自分を意識する。決して無理強いをするのではなく、あくまで自然に。きみがそうしたいと思ったときのために最高の贈り物を用意しておくよ。いつかきみのなかにぼくの愛が色づくその日まで、ぼくは毎日きみを守るよ。きみがぼくの愛に気づくその日まで。
「おやすみ莉子……愛している」
いつか隣で眠るだろうきみをイメージして笑いかける。無防備で無邪気な本性を曝しだす、その日が訪れることを確信しながら。大丈夫。きみはぼくのもの……。
毎日こうしてきみのことを考えながら眠りに落ちる。あと何度、このような孤独と幸福に浸れるだろう。意識を手放す最後の瞬間まできみを想い続けた。
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