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アジェーリアから告白を受けた一行の旅路は、とても和やかな雰囲気のものに変わっていた。
『お気に召すままワガママどうぞ』宣言をしたティアは、アジェーリアにあれこれと命令される……ことはなかった。
時折、ティアに同じ髪型を求めたり、その日に着るドレスを選ばせたり、馬車の中で会話を求めたりすることはあったが、それはワガママというよりは仲の良い友か、姉妹がじゃれ合っているようなもの。
そんなティアとアジェーリアを見て、騎士達は柔らかく目を細める日々が続いた。
とはいえ国境に近づくにつれ、緊張感が増している。
騎士達は何食わぬ顔をして普段通りの遠征服を身に付けているが、その下は有事の際にいつでも対応できるよう、鎖帷子を着込んでいる。
ウィリスタリア国とオルドレイ国は、大陸続きで、サチェという名の渓谷が国境となっている。
今でこそ巨岩を縫い、底まで透けて見える清流が流れているサチェ渓谷だけれども、かつてはこのエメラルドグリーンに輝く神秘的な淵は、血の色にそまった激戦地だった。
また、この旅路の最後にして最大の難関でもある。
これまで何度か王女の婚姻を阻止しようと小規模な反乱はあったけれど、バザロフの配置した兵のおかげで、水面下でなんとか平穏を保ち続けていた。
けれど、気を抜いてはいけない。何より、そんな諍いを目にしてしまえば、王女の心は痛むだろう。
だから取り繕ってでも、目に見えるところだけは平穏で穏やかに。嫁ぐ王女を、つつがなく見送りたい。
そんなふうに騎士達は強く心に思いながら、徹底した警護を続け、一行は山岳地帯へと突入した。国境までは、残り3日となっていた。
***
本日の宿は、かつて王族がお忍びで利用していたこぢんまりとした館である。
今の王族は、お忍びで通う理由がないので、元軍人であり、現在はこの地の領主であるロハンネ卿が責任を持って管理をしている。
山岳地帯にあるそこは、まるでオーベルジュのようであり、この旅路でもっとも居心地の良い宿でもあった。
今は、どっぷり夜が更けて就寝前。
地方の食材を惜しみなく使った、素朴で味わい深い夕食をいただき、ティアもアジェーリアも湯を浴び終わっている。
ティアはアジェーリアの髪を乾かし、丁寧に香油も付け終えた。
あとは就寝前にリラックス効果があるハーブティーを飲んで、アジェーリアがベッドに入って明かりを消せば、これでティアの今日の一日は滞りなく終わる……はずだった。
けれど、ここでアジェーリアは何の気なしにティアに向かって口を開く。
「今宵は、少し話をせぬか?」
そう言いながら小首を傾げたアジェーリアは、さらりとした絹の寝間着に細い毛糸で編んだボルドー色のショールを肩にかけている。
ちなみにティアもアジェーリアの指示で、ほぼほぼ同じ格好をしている。
これを着ろと言われたら、ティアには断る権利はない。
アジェーリアの命令は絶対だから、話をしようと言われたら首を縦に振る以外選択肢はないけれど、ティアは困るどころか、かなり嬉しかった。
残りわずかとなったアジェーリアと過ごす日々に、ティアも寂しさを覚えていたのだ。
「はい。わかりました」
こくりと頷いたティアの口元は、弧を描いていた。
どんな話なのだろうかと期待に胸を膨らませながら、いそいそとティアはアジェーリアのティーカップにお茶を追加する。
本日、ティアとアジェーリアに用意された部屋は1室だけ。
女性向けの部屋というよりは、ベッドと長椅子しかない簡素なものだけれど、歴史のある重厚な家具に包まれたシックな趣の部屋だ。
長椅子にアジェーリアが腰かけているので、ティアは必然的に床にひかれた絨毯の上に座っている。
待てを覚えた子犬のようにソワソワと落ち着きがないティアとは対照的に、アジェーリアはきつく唇を結んでいる。一向に話す気配はない。
しばらく待っては見たけれど、とうとう居心地の悪さを感じてティアは、そぉーっとお茶を一口、口に含んだ。
その時、アジェーリアは居ずまいを正し、小さく咳ばらいをしてから口を開いた。
「……さっそくじゃが、ティア、そなたは恋をしているか?」
ティアは、思わず飲みかけていたお茶を、アジェーリアに向かって吹きそうになった。
なんとか回避できたけれど、ほんの少しだけお茶が器官に入ってしまい、せき込んでしまう。
「……ティア、答えよ」
アジェーリアは、ティアが落ち着くまで待ってくれる慈悲の心はあったけれど、うやむやにしてくれる優しさまでは持っていなかった。
「いや、あの……そういうのは、ちょっと……わかりません……」
ティアは、咄嗟に嘘をついた。
なし崩し的にとはいえ、3年も想いを馳せてきた人物とずっと一緒にいるのだから、どれだけ自分の心を誤魔化しても暗示をかけても、視界に入るだけで否が応でも、この気持ちが何なのかわかってしまう。
けれど、言えない。言いたくない。
特に、アジェーリアの前では。絶対に。
それに、自分にそんなことを聞いてくるのは……少々鬼畜ではないだろうか。
ティアは心の中で、そんなふうに苦く思う。
だってこの数日、ティアは見せつけられてしまったのだ。自分の知らないグレンシスの顔を。そして彼が生きる環境を。
グレンシスは、笑うことを知らない冷血漢だと思っていたのに、そうじゃなかった。
部下に対して声を上げて笑うこともあれば、肩を叩いて朗らかに会話をしていることもある。
アジェーリアにも、部下にも慕われ、そこにはティアの立ち入ることができない、絶対的な絆があった。
それを目にするたびに、心が痛んだ。悔しいという思いが溢れてくる。
グレンシスは笑えない人間ではなく、自分にだけは笑みを浮かべたくないのだと自覚させられる。
もちろん自分が嫌われていることはわかっている。
今でもグレンシスと恋仲になりたいとは思っていないし、まして結婚など考えてもいない。
それに娼館育ちの自分が、エリート騎士様と対等に会話することを望むなんて、高望みすぎるものだということも理解している。
けれど、この旅がすでにひと月を迎えようとしているのに、グレンシスは自分に目を合わせてくれることも、言葉を掛けてくれることもない。
それはとてもティアには辛いことだった。
自分が思っている以上に、傷付いていた。
何かの呪いで、グレンシスだけには自分の姿が映らないのだと言われた方がよっぽどマシである。
だから、これが恋などとは認めたくない。
そんな言葉にできない気持ちを抱えて、ティアがしくしくと胸を痛めているのに、アジェーリアは、お構いなしにと追及を強めてくる。
「わからない?……ほう?それは真か?」
黙秘を許さぬという強い視線を受けて、ティアはぐきっと首が痛むほどに顔を逸らした。
けれどアジェーリアの追及がやむどころか、彼女の目力がますます冴えわたる。
猫のように目を細めるアジェーリアが、なぜか獰猛な肉食動物に見えてしまう。そして自分は木の実を抱える小型の草食動物。
ああ、どうあってもこれは逃げ切れることができないと、ティアは悟ってしまった。