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第58話 涙の玉座
香の海が遠ざかるほどに、縫季の体から何かが確かに削れていった。
香の循環がうまく回らない。一呼吸で整うはずの気脈が、今はぎこちなく軋む。
(……急がなければ…)
遠く、香の波が揺れた。管理官が灯台の観測網を通して照合を続けている。だが届かない。縫季はもう、その観測域の外にいる。
世界線の縫い目を読む感覚は弱まり、帝辛の魂の光がなければ方向すら定まらない。
縫季は胸元の小さな光を見た。か細いが、確かに帝辛の魂はそこにある。暗い海を照らす唯一の導のように揺れていた。
「……連れていく」
声が震えた。香ではなく空気で震える。人間の体がそうなるように。
白い光が裂け、視界が暗転する。
――その光が、観測層の端をかすめた。
灯台規定でも干渉を控える『観測の座』で、その揺れだけが異物だった。
九つの尾が、ゆるやかに動く。
獣のようで、神のようで、輪郭だけが香の層と溶け合っている影が、帝辛の魂核を見下ろしていた。
目にあたる部分が、ゆっくりと細められる。
「……壊れるかと思ったが」
声は男とも女ともつかない。年齢も、存在の重さも測れない。
「壊れ方が整っているな」
◆
石の床に沈むように降り立つ。香で編まれた任務用の仮身は、本来重さを持たない。なのに今は胸も指先も冷えている。
(……有限の熱だ)
胸の奥で脈が打った。緊急有限化が始まり、人界の時間へ定着しようとする魂が、本物の鼓動を刻み始めている。
縫季は息を吐いた。その息の荒さに、自分で驚く。
(呼吸が……必要になっている)
掌の光が震える。帝辛の魂だ。
「大丈夫だ……離すものか」
光は弱く脈動する。この世界線を拒む震えだった。
(……違う)
縫季が視線を上げると、薄闇に沈む玉座の間が広がっていた。歪みの深い世界ほど、この部屋は暗い。
地表近くには重たい香煙が漂っている。
歩き出したその奥で、別の匂いが鼻を刺した。
酒。焦げた肉。そして、快楽と絶望が混ざり合った、人の声。
回廊の先に、宴の残骸が広がっていた。酒が溜まった池。肉を串に刺した「林」。
甘い香と焦げた匂いが、空気の底に沈む。
(……殷が滅ぶ前、史に記された『あれ』か)
だがこれは、本物の享楽ではない。
笑い声だけが妙に増幅され、人影は輪郭だけが揺れ、音と匂いだけが過剰に濃い。
快楽は再現されているのに、そこに「人の気配」が欠けていた。
縫季は痛む胸を押さえた。
(帝辛……お前は、こんな場所に立つ王じゃない)
足音が地に沈み、重たく響く。
◆
玉座の前に、帝辛がいた。
衣は整い、姿勢も正しい。
だが――
目が死んでいた。
縫季の胸が鳴る。
帝辛の声が、乾いた空気を裂いた。
「……民を犠牲にせよ」
淡々とした命令。けれど声は震え、涙が頬を伝い落ちる。
「必要だ……殷を守るためなら……私が、判断するしかないだろう……」
帝辛の背後に黒闢が立っていた。肩に置かれた手は、重たい鎖のようだった。
そのさらに奥、薄闇の柱にもたれるように、九尾がいた。
止めるでもない。黒闢に与するでもない。
ただ、九本の尾だけがゆるやかに、愉しむように揺れていた。
口元は暗がりに紛れて見えない。だが、笑ったのだと分かった。
――ほらな。
意味だけが、縫季の胸の奥に落ちる。
――この線は、そう簡単には消えない
空気が、ざわりと動いた。笑いの気配だけが、玉座の間に満ちた。
縫季は、奥歯を噛んだ。
(違う)
掌の光が震える。帝辛自身が、この世界の「自分」を拒絶して泣いている。
一歩踏み出した瞬間、膝が崩れた。
(……体がもたない)
香で編まれた脚に痛覚が宿り、有限の脆さが迫ってくる。
帝辛の視線は虚空を彷徨っていた。
「……民の苦しみは、分かっている。だが、判断せねば……私は、この国の王だ……」
「……陛下」
喉は乾き、声は掠れていた。
帝辛は涙を拭わなかった。拭えなかった。黒闢の手が、帝辛の肩を抑えつけている。
掌の光が震える。帝辛の魂が泣いている。
#ダークファンタジー
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#BL
#ヒューマンドラマ
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コメント
1件
第58話、読み終わりました…。 涙を流しながら玉座に立つ帝辛の姿が、すごく胸に刺さりました。自分を拒絶して泣いているのに、「王だから」と命令し続けるしかない。その葛藤が、黒闢の手と九尾の愉しむような気配でさらに重くなってて。 縫季の「お前はこんな場所に立つ王じゃない」って心の声が、まさにこの場面の全てだと思いました。掌の光が震える帝辛の魂が、本人の涙と重なって…切なすぎます。 この世界線の「歪み」の気持ち悪さも、匂いや音の描写で生々しく伝わってきて、引き込まれました。続き、気になります…🥀