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指先が、冷たい。
深い泥の底に沈んでいた意識が、ゆっくりと水面へと浮上していく。
最初に肌が感じたのは、滑らかな絹のシーツの感触と、耳が痛いほどの静寂だった。
重い瞼を、ようやくの思いで持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪華な刺繍が施された天蓋だった。
窓から差し込む青白い月光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
その光の下、枕元に広がっていたのは───
雪のように真っ白な、自分の髪だった。
「ここは……どこ?」
掠れた声を出そうとして、喉が焼けるように乾いていることに気づく。
上体を起こそうと腕に力を込めるが、まるで自分の体ではないかのように力が入らない。
それどころか、自分が誰で、なぜここに横たわっているのか
昨日のことさえ霧に包まれたように思い出せなかった。
頭の中に広がるのは、何も描かれていない真っ白なキャンバスのような、虚無の空白だけ。
そのとき。
重厚な彫刻が施された扉が、音もなく開いた。
入ってきたのは、一人の男だった。
夜を塗り固めたような漆黒の髪。
冷徹なまでに整った容貌は、まるで冷たい大理石の彫像のようだ。
しかし、宵闇を溶かし込んだような深い瞳がベッドの上の私を捉えた瞬間
その表情に劇的なまでの激情が走った。
彼は一瞬、信じられないものを見たかのように息を呑んで足を止めたが
すぐに吸い寄せられるような足取りでこちらへやってきた。
軍靴が絨毯を踏み締める、静かだが力強い音。
「……シェリー」
聞き覚えのない名前。
けれど、鼓膜を甘く震わせるその低い響きに、胸の奥がざわつく。
彼は迷うことなくベッドの縁に膝をつくと
震える私の肩を引き寄せ、折れんばかりの力で抱きしめた。
「ああ、よかった。目が覚めたんだね……。どれほど、このときを待ちわびたか」
あまりに強い力で抱きしめられ、彼の胸に顔が埋まる。
高価な香水の洗練された香りが鼻をくすぐる。
けれど、その奥底に
雨に濡れた鉄のような、微かな血の匂いが混じっている気がして、背筋に冷たいものが走った。
私は困惑し、彼の硬い胸板を弱々しく押し返そうとした。
「あの……あなたは…どなた、ですか?」
私の問いに、私を拘束していた彼の腕がわずかに強張る。
彼はゆっくりと体を離すと、壊れ物を扱うような
あまりに丁寧で執着に満ちた手つきで私の頬を包み込んだ。
その瞳には、狂おしいほどの愛着と、それ以上に深い「何か」が渦巻いている。
「忘れてしまったのかい?無理もない。君は、王位を狙う反逆者どもの襲撃に遭い、その衝撃で眠ってしまっていたんだ」
彼は私の額に、誓いのように静かな、けれど熱を帯びた口づけを落とした。
「僕はジェル。君を生涯守り抜くと誓った騎士であり……君の、唯一の婚約者だ」
ジェルの唇が弧を描き、微笑みが形作られる。
それは完璧なまでに美しく、慈愛に満ちたものだった。
「大丈夫、怖がらなくていい。君の居場所は、僕の腕の中にしかないのだから」