奏は後半三十分で、ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』、ラヴェルの『プレリュード』『ソナチネ第二楽章』、サティの『三つのジムノペディ第一番』を続けて演奏した。
時折顔を上げ、会場の中の様子を見ると、怜がアルトサックスをストラップに装着した状態で会場内の隅にいるのを見つけた。
音出しとウォームアップも終わり、後は演奏の出番を待つだけ、といった状態なのだろう。
時折、マウスピースを咥え、息を吹き込んで楽器を温めている様子が見える。
そこへ彼の元にやって来た、圭の婚約者、園田真理子。
親しげに会話をする二人。
真理子が怜に優しい笑顔で肩をポンと触れている様子が、遠目からでも見えた。
どことなく甘い雰囲気を漂わせている怜と真理子に、奏は鍵盤と二人を交互に見やりながらピアノを弾き続けた。
(あの二人……)
しばらくすると、そこに圭も加わり、会話を続ける三人。
(葉山さんと園田さん……親しく話してるって事は、元恋人同士ってヤツなのかな……)
弾きながら、怜に対して嫉妬しているような思いを抱える奏。
今まで男性に対して、こんな思いを抱く事が無かった奏は、気持ちが上の空になったせいか、盛大なミスタッチをしてしまった。
それも、ピアノ経験者なら聴いただけでわかる、大きなミスタッチ。
(ヤバい……やっちゃった……)
不意に、大学時代の恩師に言われた言葉を、今更ながら奏は思い出した。
『服装の乱れは心の乱れ、って言葉があるけど、音楽家だとそれが、演奏の乱れは心の乱れ、になる。自分の心境がストレートに音に出るの。だから音楽家はどんなに心が乱れていても、それが音に表れるようではダメ。演奏はある意味演技と同じ。演奏している時は、自分が大女優になった気持ちで弾きなさい。ただし、自分の演奏に驕り高ぶるのはダメ。謙虚でいる事を忘れてはダメよ』
(師匠……出来の悪い弟子ですみません。私……『大女優』になれそうも無いです……)
思わず心の中で恩師に謝罪してしまった奏。
だが、会場内にいる人たちは、彼女の弾き間違えに気付かず、それぞれの時間を楽しんでいる。
奏はホッとしながらも、最後の一曲まで何とか弾き切った。
「ご歓談中ではございますが、ここで、ハヤマ ミュージカルインストゥルメンツ社長、葉山 武より、皆様へご報告がございます」
司会者のアナウンスで、会場の舞台に社長が先頭で上がり、その後に怜の兄、圭と婚約者、園田真理子が続く。
舞台中央に設置されているスタンドマイクに、社長が挨拶を始めた。
「私事ではありますが、この度、私の長男、副社長の葉山圭が、お隣にいらっしゃる園田真理子さんと婚約する事となりました」
社長の報告で、会場内が一気に騒めきに包まれる。
圭は真っ直ぐに会場を見渡しているが、真理子は俯きながら、顔を微かに歪ませているのが見えた。
顔を伏せたまま、今にも泣きそうな真理子。
嬉し泣き、という感じではない。
奏は、先ほど怜が真理子と親しげにしている所を見たせいか、複雑な心境で社長の挨拶を聞いている。
対照的な面差しの圭と真理子をよそに、社長は笑顔を見せながら挨拶を続ける。
「結婚式は先ですが、まだまだ若く未熟な二人です。今後とも皆様のご指導、ご鞭撻を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
社長が深々と一礼をすると、会場内には大きな拍手が三人を包み込んだ。
「お二人のご婚約をお祝いしたいと、圭様の弟、葉山怜様がアルトサックスの演奏を披露して下さいます。それでは怜様、よろしくお願いします」
司会者のアナウンスで、ハッと我に返った奏は、ピアノの椅子に座り直して怜の方を見やると、彼は小さく頷く。
大きく息を吐き切った後に、奏はT–SQUAREの『WHEN I THINK OF YOU』の前奏を弾き始めた。
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