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『WHEN I THINK OF YOU』〜あなたを想う時。
今ここで、切々と歌い上げるようにアルトサックスを演奏している怜には、奏がどんな想いを抱えて音を紡ぎ出しているのか、わからないだろう。
奏は伴奏をしながら、親友の結婚式で怜と出会った時の事を思い返す。
初めて会話して数分後、突然砕けた口調に変わった怜に対して、初対面なのに随分と馴れ馴れしいと一喝した奏。
その事で怜は平謝りしていた。
過去の失恋の記憶を思い出してしまい、奏が具合が悪くなった時に包まれた、怜の温もり。
立川のシティホテルのラウンジで会話した時、思いの外話しやすく感じ、時間を忘れるほどに互いの高校時代の共通の部活、吹奏楽の話をしていた。
『もし良ければ……連絡先を交換したいんだけど……いいかな?』
そう言いながらスマホを操作する怜の手に、イケメンな顔立ちと反して、無骨で『働く男の手』を感じた奏は、鼓動が大きく打ち鳴らされた。
(多分、その時には私、既に……)
怜が、サビの部分でもある、同じようなフレーズが四回続く旋律を演奏している。
彼もアルトサックスを吹きながら感情が昂っているのか、切ない想いを爆発させるかのように、所々に高音のアドリブを入れてくる。
(アルトサックスを吹いている葉山さん……カッコいいな……。音色もふくよかで色気もあるし……)
奏のピアノも、怜につられるかのように打鍵に気持ちが入り、指先が滑らかに鍵盤上を左右に移動していく。
伴奏を奏でながらも、彼女が思い出すのは、二人でラウンジに立ち寄った時の事だ。
『もし帰宅したら、俺に連絡してくれると嬉しい。ここに来るまで、あんな事があったし、やっぱり心配だから』
今まで、父親以外の男性に、こんなに心配された事ってなかった。
社交辞令かもしれない。
それでも奏は怜の言葉に戸惑ってはいたが、内心嬉しかったのだ。
あの時の彼女は、自宅が近いし大丈夫だから、と言って一度断ったはずだ。
『それでも君が心配だから……俺に連絡して欲しい』
ここまで男性が心配してくれるのは、奏の二十六年の人生で出会った男性では、怜だけだ。
(あの時から既に……私は…………葉山さんの事を……好きになっていたんだ……)
奏は、怜に対する恋心をついに自覚した。いや、自覚してしまったのだ。
だけど今日。
奏は、怜がかつての恋人と思われる人と一緒にいるのを見て、心が騒めいている。
嫉妬のような感情を、初めて抱いた。
これ以上、怜に踏み込んだら、いつかまた心に深く傷ついてしまう。
人を好きになる事が怖い。
人を好きになって、心も身体も深く傷付いたら、今度こそ立ち上がれないかもしれない。
奏の心は葛藤する。
前に進まないといけない、と頭の中では分かっていても、高校時代に付き合っていた彼の仕打ちを思い出すと、また同じ事を繰り返してしまうのではないか、と臆病になってしまってその一歩が踏み出せない。
(この気持ち……どうしていいのか…………わかんないよ……)
怜が奏でるアルトサックスの音色に、胸が締め付けられそうになり、奏の視界が少しずつ滲んでいくのを感じた。
(怜さんの事を想う時……好きって気持ちで…………胸の奥が苦しくなる……)
曲のラストのアルペジオを弾き切った瞬間、奏の黒い瞳から雫が頬へと伝い、白鍵の上にポタリと落ちた。