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昨日の僕を、君は知らない
たった一日で何があったのか。喪失か、嘘か、それとも‥
朝の教室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。
誰かが椅子を引く音、誰かが笑う声、窓から差し込む淡い日差しと、教室の隅に咲いたような静寂。すべてが昨日と同じに見えて、たった一つだけ、明らかに違っていた。
「……いふくん、なんで……そこに座ってるの?」
僕は、わからなかった。
いふくんが、僕の隣の席に座っている。
いや、いふくんが僕のことを、知らない。
「……は? なんでって……指定席やし」
彼は怪訝そうに眉をひそめて、僕を見た。
いつもの癖で指先を髪に絡めて、少しだけ頬を膨らませるようにして話す彼の仕草。見慣れている。見飽きるほど、隣にいた。少なくとも、昨日までは。
「……えっと、あの……いふくんだよね?」
「……せやけど。え、誰?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
冷たい何かが、喉元から胸にかけてざらりと流れる。指先が震えていた。
「……僕、ほとけ。覚えてない……?」
「ほとけ……? いや……知らん。ごめん」
何かの冗談じゃないかと思った。
でも、彼の目は笑っていなかった。僕のことを、本当に「知らない人」として見ている目だった。
僕のことを知らない目。
昨日まで隣で笑ってた人間の目じゃない。
「……ウソだよね」
僕の声が、やけに遠く聞こえた。耳鳴りのせいか、教室の音がすべて消えていく。
今日が、いつもの続きじゃないことに、ようやく気づいた。
*
いふくんとは、小学三年の春からの付き合いだった。
いつも関西弁で、人懐っこくて、誰にでもすぐ話しかける。けど本音を言うのは僕にだけだった。そんな関係だった。
僕の好きなもの、嫌いなもの、全部覚えてくれてた。テストで点数が悪かった日にはジュースを奢ってくれて、僕が落ち込んでたら、無理やり笑わせてくれた。
「俺にだけは弱音吐いてええんやで、なあ」
そう言って笑ったのは、昨日の放課後だった。
それなのに。
――何が起きたんだ、たった一日で。
*
その日の放課後、僕は意を決して、いふくんを追いかけた。
彼は鞄を肩にかけ、イヤホンを耳に差し込んでいた。けれど、僕が「いふくん!」と呼ぶと、足を止めて振り向いてくれた。
「……何?」
短く、他人行儀な声だった。
「お願い、ちょっとだけ時間くれない? 話したいことがあるんだ」
「……俺と?」
「うん。僕と、君」
少し間を置いてから、いふくんは小さくうなずいた。
*
人気のない裏庭のベンチに並んで座る。
風が吹いて、制服の裾がふわりと揺れる。僕は深呼吸をして、口を開いた。
「今日、朝……教室で話しかけたよね。僕のこと、知らないって言った」
「うん」
「……でも、僕は、君のことをよく知ってるんだ。昨日まで、毎日一緒にいた。ずっと隣に座って、同じ時間を過ごしてた」
「……」
「君は、僕のことを“仏”って呼んでた。たまに“ほとけちゃん”って茶化してくることもあった。家に来たこともある。僕が風邪で寝込んだとき、ノートを届けてくれた。僕が、君の誕生日に手作りのクッキーを渡したこと、覚えてない?」
言葉が空気に溶けていく。彼の瞳は、何も映していなかった。
「……ごめん。ほんまに、なんも覚えてへん」
それでも、僕は言葉を止めなかった。
「僕……昨日、君と一緒に帰った。公園のベンチで、くだらない話をして、君が眠くなって……そしたら突然、“じゃあな”って、帰って行って……そのあと、何があったの?」
僕の言葉に、いふくんの眉がピクリと動いた。
「昨日の夜、君にメッセージを送った。でも、未読のまま。今朝、学校に来て……そしたら、君が僕を“知らない”って言ったんだ。……何があったの? いふくん」
彼は、少しの沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……俺にも、わからんねん」
「え?」
「起きたら、急に記憶が空白でな。家の人の顔はわかるし、学校の場所もわかる。でも、細かい出来事がところどころ抜け落ちてんねん。……なんか、おかしいやろ?」
「それって……記憶喪失、みたいな?」
「かもしれん。でも、病院行っても“異常なし”って言われた」
「じゃあ、昨日……何かがあったんだ」
「せやな。俺もそれを、探してんねん」
僕は、思わず問い返していた。
「……なんで? 僕のことなんて覚えてないのに、どうして“探そう”って思うの?」
彼は、しばらく黙って、それから言った。
「わからんけど……朝、お前を見たとき、なんか胸がぎゅーってなってん。知らん顔やのに、懐かしい気がした。……なんか、大事なもんを、俺は失くしたんちゃうかって」
その言葉を聞いたとき、僕の中で何かが崩れた。
ああ、やっぱり――いふくんは、本当に僕のことを、大切に思ってくれてた。
でも、もう、それを彼は覚えていない。
日が暮れていく中、僕たちはベンチに並んで座っていた。会話は少なくなり、ただ風の音だけが響いていた。
「……なあ、ほとけ、やったっけ」
「……うん」
「仮に、ほんまに俺らが“昔、親友やった”として……やけど、もしそれを、俺が思い出されへんままやったとしても……それでも、また仲良うなれるかな?」
その言葉に、僕は涙をこらえきれなかった。
「……うん。なれるよ。また、一から……作っていこう」
「そっか。……ありがとうな」
いふくんは、笑った。
その笑顔は、昨日まで見ていた彼の笑顔と、まったく同じだった。
でも――
その笑顔の裏に、僕は気づいてしまった。
彼が思い出していないのは「記憶」だけじゃない。
彼は“何か”を、隠している。
それは、喪失か。
それとも、嘘か。
あるいは……。
昨日の僕を、君は知らない。
だけど、君が昨日、何をしたのか――
僕はまだ、知らない。
あの日の朝、いふくんが僕を「知らない」と言った瞬間から、僕の世界はどこかズレ始めた。
記憶喪失だという彼の言葉を信じるには、あまりに彼の視線は冷たくて、それでいてどこか怯えていた。
まるで、“思い出したくない何か”から逃げるために、記憶を封じたような──そんな顔だった。
それから数日、僕はいふくんと毎日会っていた。
彼は前みたいに笑ってくれたし、くだらない話にも付き合ってくれた。でも、僕のことを“新しくできた友達”とでも思っているようで、僕が過去のことを話すと、ふと目を伏せて黙り込む。
「……なあ、いふくん。ほんとはさ、覚えてるんじゃない?」
放課後、二人で屋上に座って、夕日を見ながら、僕は問いかけた。
「昨日、君の好きな飲み物を自販機で買ったら、“なんでそれ知ってんの”って言ったでしょ。そういうの、何気なく出るもんじゃない?」
彼はしばらく黙って、そして言った。
「……せやけど、忘れてた方が楽なことって、あるんやで」
僕の胸がぎゅっと締めつけられる。
やっぱり──“思い出したくない過去”を、彼は知っている。
「じゃあ……君が忘れたかったことって、僕と関係あるの?」
「……」
沈黙が、答えだった。
僕は、何をしたんだろう。
彼を、何で……こんなにも傷つけてしまったんだろう。
*
その日の夜、眠れずにスマホのフォルダを眺めていた。
いふくんと撮った、何百枚もの写真。ふざけて変なポーズをしたやつ、体育祭、文化祭、誕生日──そして、一番最後に撮ったのは、三日前。放課後、僕の部屋で並んで笑ってた。
その写真の右上に、見慣れない日付があった。
──撮影日時:2025年8月31日 17:46
でも、その後のメッセージが、全部既読になっていなかったのだ。
「……なんでだろう」
不思議に思って、あの日のチャット履歴を見返した。
──『また明日も、来てくれる?』
既読がついていない。
だけどその下に、もうひとつ未送信のメッセージがあった。
スマホを握りしめて、僕は気づいた。
“何かが、削除されている”。
*
次の日、思いきって、彼に真正面から聞いた。
「いふくん。僕たち、あの日……何があったの?」
「……言わなあかんか?」
「うん。僕、ちゃんと知りたい。君の“忘れたい過去”が、僕のことなら、逃げずに向き合いたい」
彼は、大きく息を吐いた。
「……お前のこと、ずっと好きやった」
その言葉は、あまりにも静かで、僕の心に真っ直ぐに刺さった。
「でもな、ほとけ。俺、それを言った日の晩……お前に“無理”って言われて。……ごめんな、こんなもんやって思って……そのまま走ってって……バイクにぶつかったんや」
「え……?」
「幸い大怪我ではなかった。でもな、そのとき……全部忘れようって、思った。お前にフラれたことも、俺がこんなに情けなかったことも……全部、無かったことにしたくて」
彼は苦しそうに笑った。
「だから俺、“記憶をなくしたフリ”をした。ほんまは、最初っからお前のこと、忘れてへん。全部、覚えてる。俺が勝手に傷ついて、勝手にお前を拒んで……最低やろ?」
僕は、涙が止まらなかった。
「……バカだよ。ほんとに、バカだ」
「なあ、そんなん言われんでもわかってるわ」
「違うよ、なんで……一人で、そんなふうに抱え込んで……! 言ってくれればよかったのに!」
「……俺が怖かってん。お前に嫌われるのが」
いふくんは、ずっと泣きそうな顔で笑っていた。
その顔が、たまらなく苦しくて、僕は彼の手を握った。
「ねえ、ちゃんと言わせて。今さらだけど」
「……なにを?」
「“無理”じゃなかった。あの時、僕……びっくりしすぎて、うまく返事できなかっただけなんだ。本当はずっと、君のことが……」
喉の奥が詰まって、でも、なんとか言葉を紡いだ。
「好きだった。ずっと、前から」
その瞬間、彼の目から涙が一粒、こぼれた。
でも、顔は、ちゃんと笑っていた。
「……ああ、ほんま、もう、何回でも記憶なくしたくなるわ……こんなん言われたら」
「やめてよ、もう」
「でも、ありがとうな、ほとけ。お前が俺のこと、もう一度……見つけてくれて」
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていく。
手のひらのぬくもりは、確かに、あの日の続きだった。
「昨日の僕を、君は知らない」──あの日、そう思っていたけど。
今なら言える。
昨日の君を、僕も知らなかった。
弱さも、痛みも、すべてを知ったうえで、それでも一緒にいたいと思えるなら、それがきっと、“始まり”なんだと思う。
「いふくん」
「ん?」
「……これからの僕を、ちゃんと知ってよ。今度こそ、全部」
「……せやな。ほな、まずは手ぇ繋ごか」
僕の手に絡んだ彼の指が、あたたかくて、少しだけ震えていた。
昨日を超えて、僕たちは今日を選んだ。
コメント
7件
まるで告白カレンダーみたいね((((
青組いつまでもお幸せに(((
感動すぎます、😭