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「昨日のこと、聞いたぞ。部下を怒鳴ったんだって?」
自販機でドリップコーヒーのボタンを押すと同時に背後から声がした。
同期の、谷。
谷は営業部営業二課の課長。
三年ほど釧路支社に行っていたが、春に戻って来た。
課長を飛ばして部長代理となった俺を除いては、最年少での課長昇進を果たした同期でも出世頭だ。
谷はペットボトルのウーロン茶を買う。
「飯だろ? そこで食おーぜ」
谷は顔の横で親指を立て、背後を指した。
パーテーションで仕切られたミーティングブース。
濃い目に淹れた紙コップのコーヒーを持って行くと、谷は既に弁当箱を開けていた。
「愛妻弁当?」
「そ。いーだろ」
谷は釧路に異動する直前に結婚した。
長年好きな女がいることは酒の勢いで聞いたことがあったが、付き合っていることは知らなかったから驚いた。
黒い長方形の弁当箱の中には、一段には白米、一段にはおかずがぎっしりと詰められている。
卵焼き、ウインナー、肉じゃがに何かの唐揚げと煮豆?
それに引き換え、俺はコンビニのサンドイッチ。
袋から卵サンドとカツサンド、野菜ジュースを取り出す。
「相変わらず、だな」と、谷がため息交じりに言った。
「何がだよ」
「食いもんに無頓着なの」
「誰かさんと違って、弁当作ってくれる女がいないんでね」
ベリベリと包装を剥がし、卵サンドを咥えた。
「作らせる気ないくせに」
「ん?」
「是枝は、恋人の手料理食ったことあんの?」
考えなくてもわかることだが、目の前で美味そうな愛妻弁当を頬張る男には即答したくなくて、わざとゆっくりサンドイッチを咀嚼した。
「ないな」
「聞いた限りじゃ、そんな深い付き合いしてないもんな」
「……」
恋人と呼べる女性との関係が浅いか深いかなんて基準が曖昧過ぎてわからない。が、手料理を食う仲が深いというのなら、違う。
俺は女性を家に呼ぶことも、女性の家に呼ばれることも好まない。
いや、女性に限らず他人を自分のプライベートな空間に立ち入らせたくない。
「家族、欲しくないのか?」
「は?」
「結婚して子供を持ちたいとか、人並みの幸せを考えることはないのか?」
「結婚して子供を持つことが幸せなのかが、わからないからな」
「それもそうか」
谷が卵焼きを口に運ぶ。
卵焼きの中心に緑色が見えたが、何かまではわからなかった。
「結婚は幸せだって言わないのか?」
「ん?」
「いや。幸せなんだろ?」
「ああ。俺はね。けど、お前が結婚して幸せになれるかなんて、俺にはわかんないからな」
拍子抜けした。
幸せの押し売りをされたいわけではないが、流れ的にされないとなると肩透かしを食らった気分だ。
「俺はあ――奥さんと結婚出来て毎日めちゃくちゃ幸せ感じてるけど、他の奴らもそうだなんて思わないし、そうなら世の中こんなに離婚する夫婦は多くないだろ?」
「確かにな」
「だから、お前も俺みたいに、この女と一生一緒にいたいって思える女に出会えたら、結婚すればいい」
「同じ年のクセに、随分と上からな意見だな」
「そりゃあ? お前より人生のイベントを多くクリアしてるからな」と言って、谷はニッと笑った。
谷はいい奴だ。
俺が女なら、間違いなく惚れてる。
その谷が心底惚れた女だ。さぞ、いい女だろう。
幸せそうな谷を羨ましいと思うこともある。
だが、どうしても自分が他人と生活している光景が思い浮かべられない。
「話は戻るけど――」と、谷がウインナーを挟んだ箸の先を俺に向けた。
「――お前が怒鳴った部下って、どうなった?」
「え?」
「社外秘の資料をゴミ箱に捨てたって女性社員。昨日は泣いて早退したんだろ?」
そうなのだ。
俺が会議から戻ると、基山は早退していた。
泣いて仕事にならないからと主任が帰るように言ったらしい。
「今日は、無断欠勤だ」
「マジ!? 勇気あんな」
我が社の就業規則では、『無断欠勤が二週間続いた場合、その翌日付で解雇処分とする』と定められている。
もちろん、事件や事故に巻き込まれている場合があるから、二週間放置するわけではない。
入社時に本人が提出した連絡先、緊急連絡先に連絡し、それでも本人の意思確認が出来ない場合だ。
今日、既に一度、主任が彼女の携帯に電話し、留守番電話にメッセージを残している。
もちろん、解雇処分となった時に備えて、社内の記録表にも残してある。
「今週は出て来ないかもな。みんなの前で叱責されて泣いた手前、出て来づらいんだろ」
「そんな子かね」と、谷が箸を置き、ウーロン茶を飲む。
「ん?」
「基山さん……だろ? 俺、彼女が帰る時に玄関ですれ違ったんだよな、昨日。普通にスマホ弄りながら歩いてたけど」
「は?」
「昨日の九時半……十時前くらい? 俺、昨日は一件直行だったから――」
「――基山を知ってるのか?」
「ん? ああ。お前だから言うけど、告られた」
「はあ?」
基山は入社四年目で、谷は三年間釧路にいた。つまり、同時期に本社勤務していたのは。この五カ月間だけだ。
それ以前に、三年前の時点で谷は結婚していた。
「本社に戻って早々に。『私、奥さんがいてもいいんです!』って。さすがに、結婚してから告られたの初めてで、ビビったわぁ」
谷は少し前屈みで、抑え気味の声で言った。
「マジか……」
「お前もあんじゃないの? あの子、条件のいい男に片っ端から告ってるらしいし」
「……部長代理の辞令が出た翌日に告られたな」
「わかりやすっ!」
「溝口部長と千堂課長にも告ったことあるらしいぞ?」
「マジか?!」
「マジで。二人から直接聞いた。さすがに二人は結婚前だったらしいけど」
「溝口部長にまでって、ある意味尊敬するわ」
谷が懇意にしている営業部部長の溝口智也さんは、課長時代は鬼課長として恐れられていた。
ちょうど三年前まで釧路支店に赴任していて、廃社が決まっていた釧路支社を立て直した功労者だ。
本社に戻る直前に、部下だった年上の女性と結婚した。
千堂課長は爽やかイケメンで入社時から女性社員からの告白が後を絶たなかったと聞くが、溝口部長と谷と時期を同じくして元営業部長の年上の女性と結婚した。
今は、男女の双子のパパだ。
「俺がどうしたって?」
俺でも谷でもない低い声が聞こえて、その方向に顔を向けた。
「溝口部長。お疲れ様です」
「お疲れ様です。これから昼飯ですか」
「いや、もう食った。出なきゃなんないから、食後のコーヒーだけ飲もうと思って」
「あ、じゃあ、ここどうぞ」と、谷が自分の隣を見た。
「ん、じゃあ」
そう言って、溝口部長は谷の隣に座る。手に持っていたコーヒーが入った紙コップに口をつけた。
「是枝、そんだけで足りんのか?」
「腹一杯になると眠くなるんで」
「それにしたって――」
「――食に無頓着なのは前からなんですよ」と、谷が言った。
「弁当作ってくれる恋人が無理なら、せめて一緒に飯を食ってくれる誰かを見つけろよ」
「大きなお世話だ」
俺は卵サンドのパッケージを丸めて袋に入れ、野菜ジュースのパックにストローを差し込んで、パックが凹むほど一気飲みした。
「ま、女に限らず、誰かと飯を食うのはいいぞ? 独り飯は何を食っても美味くは感じないからな」
「経験者は語る、ですか?」
「まあな」
「部長も愛妻弁当ですか?」
「ん? ああ」
谷もそうだが、『愛』妻弁当であることを否定しない。
恥ずかしくないのだろうか。
紙パックも袋に入れ、カツサンドの封を切る。
「そういや、是枝。部下を怒鳴って泣かせたんだって?」
「別に、むやみに怒鳴ったわけじゃ――」
「――わかってるって。で、その部下は? 改心したか?」
「いえ。今日は、無断欠勤です」
「マジか」
はぁとため息をつきながら、カツサンドを頬張る。
「お前、ため息つきながら飯食うなよ」
「あ、すいません」
「ま、気持ちはわかるけどな。男漁りに忙しくてろくに仕事もしない部下を叱ったら会社中に知れ渡って、当の本人は無断欠勤。ため息もつきたくなるよな」
「はぁ……」
「後味は悪いかもしれないが、辞めてもらった方が無駄な人件費が削減出来ていいだろうな」
役職者にあるまじき発言だが、同感だ。
今朝、始業時間を過ぎても基山が来なくて、俺は彼女が抱えている仕事に急ぎの物がないかデスクの書類やパソコンのファイルをチェックした。
そうしたら、まあ、出てくるわ出てくるわ。
古いものでひと月前から、直近では三日前の指示書。
手書き資料のデータ化や過去の取引記録の洗い出し、各支社からの問い合わせメールの返信など、いいだけ溜め込んだ未処理作業。
どれも急ぎではないからと溜め込んだ挙句、どれも切羽詰まった状態だった。
全部、『いつまでに処理をするか聞いてませんでしたー』で逃げる気だったのか?
「上からは文句の一つも言われるだろうが、開き直っちまえ。社外秘の資料を紛失したら、それこそお前の査定に響いてたろうしな」
溝口部長はコップに残ったコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「じゃ、俺行くわ」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
俺と谷は部長を見送る。
気づけば、谷は弁当を食べ終えて片付けていた。
何となく、急いでカツサンドを飲み込む。
「そういや――」と、谷が頬杖をついて言った。
「よく気が付いたな? 資料が捨てられてること」
ゴクンと飲み込み、コーヒーで奥まで流し込む。
「ああ。清掃員が見つけてくれたんだ」
「清掃員?」
「そ」
「気の利くおばちゃんで良かったな」
「おばちゃん?」
「ん?」
「なんでおばちゃん?」
谷が迷いなく『おばちゃん』と表現したことが気になった。
谷は谷で、おかしなことを言っただろうかと首を傾げている。
「清掃の人って年齢層高いだろ?」
「そうか?」
「残業しててたまに挨拶するけど、俺の親より年上っぽい女の人にしか会ったことないし」
「そう……か」
「違ったのか?」
「何が?」
「資料見つけてくれた清掃員。おばちゃんじゃなかった?」
「ああ。俺たちより若い女だった」
「マジで? そんな若い子が清掃してるって聞いたことなかったな」
確かに、毎日のように残業している俺も、あの時初めて会った。それまでは、五十代後半か六十代にも見える女性ばかり。
「そんな若い子が清掃って、大変だろうな」
「ああ」
清掃の仕事に偏見があるわけではないが、やはり若い女には苦痛ではないだろうか。
アルバイトならば、夜間の時給の良さで選ぶこともあるかもしれないが。
「ま、とにかく! その子に感謝だな」
改めて言われ、お礼がコーラ一本では申し訳ないと思った。
次に会ったら、もう少しちゃんとお礼をするべきだな。
「谷、ちょっと頼みがあるんだけど――」
どうせ今日も明日も残業だからそのうち会えるだろう、と思った。