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「あのぉ……」
いつぞやと同じ背後からの声に、俺の心臓はまたしても一時停止した。
振り返ると、柳田さんが立っていた。
前に会った時と同じ、グレーの帽子、黒縁眼鏡、白マスク、グレーの作業着、白スニーカーという格好で。
「お疲れ様です」
俺は椅子を回転させて、言った。
「あ、お疲れ様です」
「清掃の仕事って不規則な感じ?」と、俺は彼女に会えたら聞こうと思っていたことを聞いた。
「俺、毎日残業してるけど、会わないこともあるよね」
むしろ、なかなか会わない。
彼女に資料を拾ってもらってから三日が過ぎ、今日は金曜だ。その間、今日まで彼女に会わなかった。
「交代制なので……」
「交代制? 週五日勤務じゃないってこと?」
「いえ。清掃の場所です。玄関ロビーと各フロアとトイレと給湯室で、担当を決めているので」
「ああ、なるほど」
「……」
俺を拝みたいと言ってきた時の威勢が感じられず、軽い口調で話しかけた自分が馴れ馴れしすぎたかなと心配になった。
俺は椅子から立ち上がり、デスクの列を縫って彼女の正面まで近づいた。
そして、腰を折る。
「この間はありがとう。とても助かりました」
「えっ……」
顔を上げると、柳田さんの驚いた顔。
正確には、驚いているであろう思う。
帽子と眼鏡とマスクで、表情はよくわからないから。
「あの時は、何だか中途半端なお礼しか出来なかったから」
「いえ、そんな……」
「それで――」と言って、俺は急いで自分のデスクの引き出しからA4サイズくらいの紙袋を取り出し、彼女に差し出した。
「――これ。好きだといいんだけど」
「えっ?」
彼女は手を出さない。
「この前のお礼に。若い子の好きなものがわからないから同僚の奥さんに聞いたんだけど」
さらにずずっと彼女の目の前に袋を差し出す。
戸惑いながら、彼女が両手を並べて、水をすくうような形で手を出した。俺は、そこに紙袋を置く。
「ありがとう……ございます」
マスク越しでハッキリとは聞こえなかったけれど、そう言ったことはわかった。
彼女はレンズ越しに紙袋をじっと見つめる。
もっと喜んでもらえる、なんて期待していたわけではないが、それにしても微妙な反応。
「お菓子の詰め合わせなんだけどさ。もし、好きじゃなかったら同僚の人にでも――」
「――好きです!」
急に大きな声を出すから、思わず硬直してしまう。
「ありがとうございます。すごく……すごく嬉しいです!」
表情が見えなくてもわかるくらい彼女の声は弾んでいて、本当に喜んでくれているのだとわかった。
「そっか。良かった」
お礼のお菓子を渡すだけなのに緊張していたらしく、肩の力が抜けて口角が上がる。
「拝ませていただいたご利益がありました」
「え?」
「仕事、真面目にやってたらこんなご褒美を頂けて」
彼女は紙袋の角が凹むほど力強く抱え、前のめりになって言った。
「ご褒美って……ほどのものでも――」
「――いえ! ご褒美です!!」
薄暗く、誰もいないフロアに彼女の興奮した声が響く。
「けど、この間のお願い? の三つにご褒美が欲しいなんて入ってなくない?」
「心の中で! 四つ目のお願いをしてました」
なんだか取って付けたようだが、とにかく彼女が喜んでもらえたなら何よりだ。
女性が喜ぶ、あまり仰々しくない品物がなんなのかわからなかった俺は、谷に頼んで奥さんのあきらさんに聞いて貰った。
チョコレートがいいか、クッキーがいいか、お洒落だと女性社員が話していたマカロンがいいか。
あきらさんからの答えは、お菓子の詰め合わせ。
無難なチョイスだが、無難じゃないお店のものならば外さない、とのことだった。
それを聞いた俺はネットで目星をつけ、昨日の昼休みに買いに走ったというわけだ。
その甲斐があった。
「もう、帰るの?」
今の時刻は、この前彼女と会った時よりも一時間ほど早い。
「あ、はい」
「あれ? けど、このフロア掃除終わった?」
「残業されている方がいたら、翌日の朝の人に頼むんです」
「そうなの? あ、けど、この前は? 俺、残業してたけどゴミを集めたってことは掃除してくれたんだよね?」
「はい。あの時は、部長に声をかける一時間ほど前に掃除を終えていました。その時は誰もいなかったので」
「そうだっけ?」
「電気はついていたんですけど、誰もいなかったです。食事に出ているのかと思って、掃除しました」
「ああ」
確かに、毎晩このくらいの時間にコンビニに買い物に行ったり、近所の蕎麦屋で食って来たりする。今日は、昼に買ったおにぎりを余していたから、さっきそれを食った。
「そっか。だから今まで会わなかったんだ」
「はい。基本的に、お仕事をされている方の邪魔にならないようにするので。たまに、気にせずに掃除して欲しいと言われれば、そうしますが」
「なるほど」
この場合、俺を気にせずに掃除してくれて構わないと言うべきだろうか。
いや、彼女にしてみれば折角早く帰れるのだから、仕事を増やされるのは迷惑だろう。
ただ、柳田さんはそんな風に思うだろうか。
彼女について、名前と年齢と住所、俺の知っている若い女性とは少し言動が違うということしか知らないが、それでも、彼女は違う気がした。
「素朴な疑問なんだけど――」と、俺は切り出した。
「――残業してる人が多くて夜の間にフロアの掃除が全然終わらなかったら、朝番の人大変じゃないの? 始業時間に間に合わないこととかない?」
「そういう時は、私が出勤します」
「え?」
「私だけ夜番で固定なんですけど、朝番の人たちで間に合わなそうな時は私が加勢します」
「なんで柳田さんが――」
「――家も近いですし、課内で一番若いですし、独身ですし。私が一番身軽に動けるので」
「いや、それにしたって、大変じゃない? 朝早くから夜遅くまで働くってことでしょ?」
「いえ、全然。朝出勤した場合は、早朝手当てがつくので、ありがたいです」と言って、柳田さんは人差し指を軽く曲げて、関節で眼鏡のフレームをクイッと上げた。
手当がつくからありがたい、と言われてしまえばそれ以上は余計な詮索かとも思うが、なぜか気になって引き下がれなかった。
「けど、この二日間は会わなかったってことは、二日とも掃除を朝に回してたってことだよね? それで、この時間て、働き過ぎじゃない?」
「しっかり休憩を貰っているので、大丈夫です」
二時間もすれば日付が変わるというのに、眼鏡の奥の彼女の瞳に疲れの色は見えない。
それでも、なぜか、本当になぜかはわからないが、無性に気になった。
余計なお世話かもしれない。
いつもの俺なら、放っておく。
いつもの、俺ならば。
「掃除、頼んでいいかな」
「え?」
「ここの掃除の為だけに朝早く出勤してもらうの、なんだか申し訳ないからさ」
「でも――」
「――一息つきたかったところだし、掃除しながらでいいから話し相手になってよ」
なにが、話し相手だ。
よく知りもしない人と、まして女性との気の利いた話なんて出来る気がしない。
「ありがとう……ございます」
「え?」
掃除してくれと言って、礼を言われるとは思わなかった。
「私が月曜の朝、出勤しなくていいように気を遣ってくださったんですよね」
俺の方が背が高いから当然だが、彼女に俯かれると表情がわからない。
お節介だと不機嫌にしていても、わからない。
「余計な――」
「――お気遣い、ありがとうございます!」
ペコッと頭を下げてから顔を上げた柳田さんの、マスクで隠れた部分以外が血色よく見えた。
ホッとした。
ホッとしただけだ。
やけに鼓動がうるさいのも、無性に嬉しいのも、自分の言動を嫌悪されずに済んだことの安心感からくるものだ。
心の中で、うんうんと頷いて、俺はデスクに戻った。
彼女はエレベーター横に置いたままの掃除用具のワゴンを持って戻って来た。そして、手早く各デスク横にあるごみ箱の中身を集めていく。
話し相手になって欲しいなんて言いながら、何を話したらいいかわからず、俺は決裁の判子が必要な書類をめくっていた。
「あ」
呟きが聞こえ、首を回す。
柳田さんが手に持ったゴミ箱の中を見つめている。
「どうかした?」
彼女が手にしていたゴミ箱は、課長のデスク横の物。
「これ……」
ゴム手袋をした手で中に手を入れる。
「これはシュレッダーの方がいいのでは」