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110 ◇夕餉タイム
「お母さん……話してなかったけど、事情があってね哲司くん今は離婚していて、独身なの」
「えっ、いや、だけど……哲司くん奥さんいるんじゃなかった?」
「うん。いたけどそんなわけで奥さんとはもう暮らしてないのよ」
元の奥さんがお世話になっていた製糸工場の今の奥さんで……とか
哲司の離婚理由とかは、この時の雅代にはまだ母親に話せる気がしなかった。
哲司が離婚していることを話すだけでも気が重かった。
何故なら、母親に哲司のことを結婚相手にと気を持たせることになるのが目に見えていたからだ。
「あぁ、私も最初はぜんぜん知らなくて。知ったのは随分後なのよ」
予想もしていなかったことを娘が言い出し、育代は浮足立つ。
育代が浮足立つのも無理からぬことであった。
だって今しがた自分の放った言葉『哲司くんが独身だったら良かったのに』と願いを込めるように言ったことが実際そうだったのだから驚きもしようというもの。
「なら、可能性あるわね。
工場に行く前はよく連れ出してくれてたじゃない。
哲司くんからはその後、その……そういったお付き合いっていうのかな、そういう交際しようっていう話は出てないの?」
母親は確信があってそう言ったわけではなく、やはり願望半分で娘に訊いたのだが、訊いた途端、娘の様子がおかしい。
明らかに素振りがおかしいのである。
「なっ、何いってるの、おかあさん。
そんなことあるわけ……ないじゃない」
そう言うと雅代が泣き出した。
自分の願望が強すぎて、いろいろなことに期待を込め過ぎて、雅代の気持ちを
蔑ろにしたような発言をしてしまったのかもしれないと思い、育代は雅代に謝るのだった。
「いやぁ~、先走ったことを言ってごめんよ。
雅代を困らせるつもりはなかったのよ?
ただ、哲司くんが雅代にずっとやさしくしてくれていたものだから勝手にそんなふうにとって悪かっわね。ほんとにごめんなさい。
ほらっ、私も哲司くんなら小さい頃から知っていて、気心が知れてるしなんてったってやさしい子だからね、ついあんな人が娘の連れ合いだったらいいな~って勝手に妄想しちゃったわ。
そうそう、私の妄想だから許して、気を悪くしないでね」
-892-
――――― シナリオ風 ―――――
〇雅代の実家/大川家 茶の間 夜 夕餉の支度のあと
雅代(おずおずと)
「お母さん……。
話してなかったけど、事情があってね――哲司くん、今は離婚してて、独身なの」
育代、味噌汁椀を置く音。
育代(驚きの声)
「えっ……? いや、だって……哲司くん、奥さんいたじゃない?」
雅代「うん。いたけど……もう、一緒には暮らしてないの」
(N)
「元の奥さんというのが、今はお世話になっていた製糸工場の社長の奥さん”で――
その複雑な事情を、この時の雅代はまだ母に語れなかった。
“離婚”の二文字を口に出すだけで、胸が重く沈むのを感じていた」
◇母の願望
育代、息を呑み、急に浮き立つ声。
育代「まあまあまあ……! そうだったの!?」
(N)「驚くのも無理はなかった。
今しがた、自分が放った“哲司くんが独身だったらいいのに”という言葉が、
現実になっていたのだから」
育代(身を乗り出して)
「なら、可能性あるわね。
工場に行く前は、よく連れ出してくれてたじゃないの。
哲司くんのほうから、その……そういうお付き合いって話は出てないの?」
雅代、一瞬で顔がこわばる。
雅代(動揺して)
「なっ、なに言ってるの、お母さん。
そんなこと、あるわけ……ないじゃない……!」
沈黙。次の瞬間、雅代の目に涙が溢れる。
育代(慌てて)
「あぁ、ごめんよ、雅代。私、先走ったことを言っちゃったね。
困らせるつもりなんてなかったんだよ。
ただ、哲司くんがあんたにずっと優しくしてくれてたもんだから……
勝手に、そんなふうに思ってしまって」
息を整えながら――――。
育代
「小さい頃から知ってるし、ほんとに優しい子でね。
“あんな人が娘の連れ合いだったらいいな”――
そんな妄想しちゃったのよ。
そう、ただの妄想。だから許してね、雅代」
(N)
「一生懸命に謝る母の姿が、雅代の胸をいっそう締めつけた。
母は何も知らない――
哲司と自分のあいだに、誰にも言えない秘密があることなど」
雅代、嗚咽をこらえながらうつむく。