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日曜日。冬の終わりを告げる暖かさが街を包んでいた。
区の文化センターでは「町内音楽コンクール」が開催されている。
小学生から高校生までが参加し、会場は保護者と審査員で満員だ。
小さなホール。
天井の蛍光灯は半分切れていて、光がまだらに落ちる。
その薄暗さが、なぜか静寂を生んでいた。
育代は朝から理恵の髪を結い、白いドレスを整える。
「今日は勝てるわ、理恵。今日は『ちゃんと』した曲よ」
理恵は鏡の前で淡々としている。
「……別に勝ち負けじゃない。でも……ピアノは」
母の胸は高鳴っていた。
ラフマニノフの再来。プロコース。雑誌掲載。
夢が形を持って広がっていく。
舞台袖。
出番を待つ理恵の耳に、他の子どもたちのピアノが断片的に届く。
ショパン、ドレミの歌、エリーゼのために……どれも綺麗。
でも、どれも「生きてない」。
理恵の視界が少し滲む。
ステージの光が、月のように見えてくる。
息を吸う。
心臓の鼓動が、ゆっくりと拍を刻み始めた。
……同調?
弾くのではなく、弾かされている。
これは、何だろう。
曲とは、作り手の想い。願い。
私は今まで、何をどう思って弾いてきたんだろう。
想いを宿して、指に伝える。
作り手の方に、最大の敬意を払って。
ベルガマスク組曲 第3曲「月の光」
一音目が鳴る瞬間、空気が震え、会場の温度がわずかに下がった。
誰も息をしていない。
ペダルを踏む音、椅子のきしむ音までもが「作品」に聞こえる。
音が光になり、光が空気を震わせる。
会場の人々は、一分も経たないうちに飲み込まれた。
子どもの演奏なのに、誰も「可愛い」とは思わない。
それは祈りにも似た音だった。
最後の音。
残響がホールに漂う。
理恵は動かない。
沈黙。
審査員のひとりが泣いていた。
「最優秀賞、黒川理恵さん。」
拍手が起きた。
けれど、どこか抑えられたような拍手だった。
理恵は無表情のまま一礼する。
スポットライトの下、彼女の影だけが長く伸びている。
育代は泣きながら叫んだ。
「理恵! すごいわ理恵!!」
その声を、理恵は聞いていない。
彼女の耳にはまだ、月の光の残響が鳴っている。
夜。
マンションのリビング。
賞状とトロフィーがテーブルに並ぶ。
辰彦は上機嫌でウイスキーをあおりながら言った。
「すげぇじゃねぇか! もう天才の才能開花だな!」
プルルルル……
辰彦のスマホが震えた。部下の林からだ。
「おぅ、林!飲んでんのか?山下も一緒?なら、うち来いよ!理恵がなぁ、最優秀賞取ったんだよ!すげぇだろ?あはは!あぁ、明日は休みだからな。朝までやろうや!んじゃ後でな!!」
「あぁ理恵、俺が儲けたら世界一のピアノ買ってやる!会社の金じゃねぇよ、これは俺の勝負だ」
理恵は無言でピアノの前に座る。
鍵盤に指を置き、一音、響かせた。
その音が、わずかに……歪んでいた。
まるで誰かが、後ろから手を添えて弾いているように。
なぜだろう……ここでは、想いを受け止められない。
その夜、育代は眠れなかった。
脳裏で、あの曲が何度も再生される。
美しい。
けれど、どこかに“穴”がある音。
眠りに落ちる瞬間、
遠くでピアノが鳴った気がした。
あの曲。
あの光。
そしてあの……闇。
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「静けさの中にしか、本当の音は存在しない。
音が鳴り終わった後に残る“間”こそが、音楽なんだ。」
― 坂本龍一(『音楽は自由にする』より)
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