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深い水底に沈んでいく思考は、アバドンの提案を受け入れる以外に選択肢はない、と告げている。彼が一度その気になってしまえば、単純な拒絶では怒りを買うかもしれない。ティオネのやり方は、正しくもあり、間違ってもいた。だが、それも多くの人々が『大賢者の存在』を望んだからだ。
「……中々、楽にはさせてもらえないな」
ふっ、と力なく笑う。アバドンは瞳を細めて言った。
『それが人間の欲望というものだよ、大賢者。だがそれは、おまえが自ら進んだいばらの道の先で手にした、ひとつの〝答え〟だ。期待に応えるのも仕事のうちじゃないかな。世界を二度救った人間など、おまえ以外にいないんだから』
同意見だ、とヒルデガルドも頷いて返し──。
「では受けるとしよう。また最初から始めるのも面白い」
『随分自信があるようで素晴らしい!』
アバドンが手を叩いて讃えた。
『ま、賭けも悪くない。できればおまえが膝をつき、発狂する姿を見てみたいところではあるが……力を取り戻すのは、それで面白い。そのときは、ぜひワタシと戦ってみてほしいもんだねえ。だって絶対、また強くなってるじゃん』
そんな期待はともかく、と彼は髑髏の杖を手に持って。
『では交渉成立、そろそろ戻るとしようか』
ヒルデガルドが「待ってくれ」と、彼が杖で足下を叩こうとするのを止めて、「ひとつだけ、提案を受け入れるついでに頼みを聞いてもらえないか」と尋ねた。ひとまず聞く態勢に入って、顔の真横で手を広げ、指をからから動かす。
『言ってみたまえ、聞くだけ聞いてあげるよ』
アバドンは気まぐれだ。どんな頼みでもしてみよう、とヒルデガルドは「二日だけ時間をくれないか、みんなに別れを言う時間が欲しい」と願った。イルネスたちや、その他多くの戦ってくれた者たちへの敬意を示したい、と。
彼は、存外興味もなさそうに『いいよ、別に』。あっさり言った。
『人間は面白い。臆病なくせに強がってワタシの前に立った、よくできた魔導師共に免じて、それくらいは許してやろう。くだらん庇い合いだったら即座に殺してやっても良かったんだが、いやあ、大変満足。で、話はそれだけ?』
願うべきことは願った。これ以上は何もない──と、思ったところで、ふとヒルデガルドはひとつだけを思い出して、顔をあげた。
「そうだ、君の名前。カースミュールと言うんだな」
『だとしたら、いったいどうしたってんだね』
「イルネスにしてもそうだが、君たちには姓があるのか?」
アバドンが杖の髑髏に両手を置いてフッ、と笑った。
『ある者とない者がいる。それらはすべて魔界で生まれたか、あるいは元が人間だったか……。ヴァーミリオンは稀有な例だ。人間とのハーフでありながら、ドラゴンという種の中で最強の地位を持っているんだから、解剖してみたくなる』
「あいつハーフだったのか……。いや、それはまあ、今はいい。聞きたいのは君のほうだ。カースミュールの名を私は知っている」
アバドンという名は知らない。だが、カースミュールという名については魔塔で管理される多くの歴史に関する資料の中で、何度も目を通したことがあった。同じ名前で、リッチのデミゴッドとして生まれ変わり、上位の魔法を操ることのできる、自身に匹敵するか、あるいはそれ以上の強さを持った存在。
「原初の賢者、カースミュール。魔塔の創設者にして数多の禁忌指定とされる魔法の創造主。……私が心から尊敬する魔導師の名だ」
魔塔が建てられた目的は『すべての人々が平穏を享受し、日々を豊かに生きられるようにする』という、至極まっとうなものだ。原初の賢者と呼ばれ、大賢者ヒルデガルドに劣らぬ実力を持った大魔導師ティクバ・カースミュールを創設者に、そこであらゆる魔法の研究が行われるようになる────はずだった。
しかし、カースミュールは魔塔完成後に多くの魔法を研究、発表していたが、ほどなくして失踪。その行方は誰も知らず、関係者とみられる大魔導師たちは、カースミュールの失踪からしばらくして何者かに殺害。その後の進展はなく、後任の賢者によって調査は打ち切りになっていた。
それが、ヒルデガルドが大賢者となってから見た資料に記された記録。カースミュールの姓は、彼女が知る限りで、ただひとりしか存在しなかった。
「なぜ、名を変え、魔物として生まれ変わったんだ。誰よりも真摯に平和と向き合い、望んだ、世界で最も澄んだ心の持ち主とまで言われていたのに」
アバドンが黙り込む。彼はすぐには答えず、そっと指を立てて。
『そんなものがあったからワタシは死んだんだよ、大賢者』
くっくっ、と笑いを押し殺すのに俯きながら。
『澄んだ心。美しい夢。眩い未来……馬鹿馬鹿しくて、あくびが出る。そんな埃の被った正義を謳った人間は、傲慢さに塗れた狂気に殺された。実に愚かで、愉快だ。そんな奴には喜劇が向いているんでしょうねえ』
ローブを大きく翻して、ヒルデガルドを包み、彼は最後に。
『続きは、おまえがワタシとの賭けに勝てば教えてやろう』