ヒルデガルドの視界は一瞬の暗転のあと、イーリスたちの目の前で開ける。そこにアバドンの姿はなく、彼の『二日後に、またここでお会いしましょうね』という言葉だけが響き、気配が風に紛れて消えていった。
「ヒルデガルド様、ご無事でしたか?」
ティオネは自分が交渉したがゆえに迷惑をかけてしまったか、と不安になったが、ヒルデガルドはやんわりと微笑んで「大丈夫だよ」と安堵させてから、自分がアバドンと交わした賭けについて話す。
記憶の封印や、与えられる五年の期間など、不安要素はあれども、誰もが彼女の力が取り戻せるのを信じていた。
「ね、ねえヒルデガルド。それってボクも一緒じゃ駄目なのかな」
「当然、無理だろう。そんな甘えた話は流石に譲らないさ」
「……だよね。ごめん、変なこと言って」
ヒルデガルドはイーリスの肩を優しく撫でる。
「気持ちは分かるよ。でも、待っていてほしい」
必ず帰ってくる。そんな含みのある言葉に、イーリスは目に涙を浮かべて、ふくれっ面で「帰って来てくれないと困るんだ。ボクだってまだ、教えてほしいことがたくさんあるんだから」と、声を震わせた。また知らないところで多くの傷を作ってくるだろう彼女が心配で仕方がないのだ。
「君は優しい子だな。さあ、それでも時間は二日ある。今はやるべきことを済ませよう。……シャロムがどうなったのかも確かめないと」
時間を稼ぐために、圧倒的な差のあったディオナを相手にした以上、ただ傷ついているだけでは済まないだろう、と急いで首都へ向かう。もはや門も壁もなく、ただ広がる残骸の海のど真ん中で、シャロムは倒れていた。
傷だらけで、息もなく、彼を手当てしようとしている四人組が傍にいる。その顔ぶれのうち、二人には見覚えがあった。
「エルン、それにクオリア。君たちも無事だったんだな」
「俺たちなら平気です、大賢者様。そっちも無事でなにより」
いくらプラチナランクとはいえ大群のワイバーンを、イルネスの救援があるまで、たった四人で相手にし続けるのは楽ではない。彼らも相当疲弊している様子だったが、それでも気に掛けるのはシャロムの容態だった。
「すみません。俺たちは偉そうなことを言っておきながら、結局、助けられてばかりだった。なんとかクオリアが保護の結界で悪化しないようにはしているんですが、この魔物の耐性が高すぎるからか、うまく止血できていない状況です」
今のヒルデガルドにも叶わないことだが、それが可能な人物がちょうど傍に一人いる、と振り向いてイーリスの肩を叩く。
「君が助けてやってくれ。傷は深いが、デミゴッドともなればそう簡単に死ぬこともない。私のポーションを飲ませて、あとは君が保護魔法をクオリアと交代したら、しばらくして目を覚ますはずだ。……その間に、私は少し探し物がある」
「うん、わかった。でも、探し物って?」
尋ねられて、彼女はティオネに「君の力を貸してくれ」と声を掛ける。彼女の人間離れした嗅覚で、どうしても見つけたいものがあった。
「お任せ下さいな。さて、何を探せばよろしいのです?」
期待はできないかもしれない。それでも、探さずにはいられなかった。なにかひとつでもあれば、そんな願いを捨てきれずに。
「イルネスを探してくれ」
目の前で灰になったのは分かっている。だが、動揺していて、完全に灰になって朽ちたと思ったが、もしかしたら角の一部分でも残っているかもしれない。せめてそれを見つけて、ミモネに届けたいと思った。
「わかりましたわ。自信はちょっとありませんけど」
シャロムに遊ばれたことが、いくらかトラウマのようになっていたが、彼女は真剣な眼差しで、空気をすうっと吸い込んで周囲のにおいを探った。そして微かに見つけた希望を手繰り寄せ、彼女は「こっちですわ!」と目を輝かせて走りだす。ヒルデガルドやカトリナがそれを追いかけた。
そこには、灰の山が積んでいるだけで他には何もない。
「これが、イルネス様だったものかと……その、すみません」
「謝ることはない。期待は、してなかったと言えば嘘だが、せめて灰だとしても、ミモネに伝えるのに持っていくことにするよ」
何も形見を持ち帰らないよりはマシだ、とローブを脱いで、そこに灰を拾おうと手を伸ばした瞬間──中から小さな手が伸びてきて、腕を掴む。思わぬ出来事に、ヒルデガルドも思わず心臓が一瞬止まった気さえした。
「ど、どういう現象だ、これは……」
灰の中から出てきたのは、小さな角を持った褐色肌の幼い女の子。大きなあくびをして、伸びをしているのを見つめていると、空からベルムとガルムが飛んできて、幼女を見るなり『なんだ、姉御、生きてるじゃないか』『ずいぶん小さくなっちまってよォ』と、二匹とも安堵して翼をたたむ。
「すまない、状況が呑み込めないんだが」
『おお、ではこのベルムが説明しよう』
そっと養女に頭を寄せ、撫でられながら彼は語りだす。
『この方は、人間とドラゴニュートと呼ばれる、我らドラゴンの高位種のハーフで、親から引き継いだ《灼熱の加護》と呼ばれる能力を持つ。自分の技で魔力を使い果たしたときに、本人の意思とは関係なく起きる自己再生だ。ただ……』
ふうっと息を吐いて幼女を転ばせると、突然幼女は楽し気な表情からムッと腹を立ててふくれっ面を見せながら。
「何するんじゃ、馬鹿者。ぬしは儂を殺す気か?」
小さな手のひらが、ぺち、とベルムの顔を叩く。
『と、まあこんなふうに、生まれて間もない頃のように弱くなる。この状態ではコボルトどころか、ゴブリンの相手すらできないほどにな。俺たちでは誤って踏み潰してしまったり、尻尾がちょっと当たるだけでも死にかねない。というわけで、だ』
なんとなく、その先の言葉に予想がつきつつも耳を傾ける。
『しばらく預かってもらえないか、大賢者』