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皮肉な事に敗因は、先程善悪自身が考えたコユキの弱点、そう経験不足であった。
いつも本堂で、つまり室内で悪者達との模擬戦を繰り広げていた善悪には屋外での戦闘経験が圧倒的に不足していたのだ。
直接の致命傷に繋がったのは風向き、つまり風下でスプレーを噴射した事に依る自爆だったのだ。
無論、善悪とて闘いや戦い、又は狩りに於(お)いて風上風下を把握(はあく)する事の大切さ、風向きの変化に敏感であるべき位の常識は弁(わきま)えていた。
ただ、知っている事と実践する事と言うのは全然別物だ。
例えば、一見シンプルに見えるファランクスという戦術がある。
密集した集団が盾で自分の半身と、隣接する仲間の半身を守りながら敵中に進撃し、アルマジロや亀の甲羅のように身を守りつつ隙間から槍を突き出すという戦法だ。
言葉にすれば単純で簡単そうに感じるかもしれない。
三国志なんかで語られる、コウメイとチュウタツの駆け引きに比べれば単純と言われればそうなのかもしれない。
しかし、実の所、このファランクスと言うやつは、実戦に登用する為には、メチャクチャに高い練度を要求される物らしいのだ。
なにせ、古代メソポタミアや同じく古代ギリシアの頃、既に一切の生産に従事する事の無い、職業軍人と言うべき専従戦士を生み出してしまったのだから。
純一戦士となった者達は二十五人づつの隊に分かれ、日がら一日戦闘訓練に明け暮れたと言う話だ。
その殆ど(ほとんど)が、剣、槌(つち)、弓、槍ではなく、ファランクスの際の連携強化に費やされたのだった。(※諸説あり)
兎も角、善悪にはオンモで戦った経験則が圧倒的に足りていなかったのだった。
それでは、コユキが逃げ切った、勝てたのは相手が善悪だったからと言う偶然の産物だったのだろうか? 否、それは違う。
善悪が催涙スプレーを使い始めた時から、なんかヤベェと思った彼女は、意識して風上のポジションを動き続けていたのだ。
要するにこの結果は彼女が自らの判断で掴み取った戦果に他ならない。
あの脂肪の塊がそんな事を?
経験が大事なのにあの挽肉(ひきにく)、いや引き篭もりの肉が?
舐めちゃあいけない。
コユキは茶糖家の娘である。
そして茶糖の家は農家である。
それも、有機農法? オーガニック? 環境保全? なにそれ美味しいの? な古き良き時代の農家であった。
嫌々、本当に嫌っ々っ手伝っていたコユキであっても、強烈な農薬や獰猛(どうもう)な消毒の飛び交う農地で、ボーっと風下にいたらとんでもない事になる。
つまり、生き残る為に自然に風上をキープするようになっていたのだ。
戦いには向いているが、狩りには致命的な特性持ちであったのである。
コユキが息を整えていると、くらくらしていた善悪が、紙相撲の力士みたいに、パタンっとうつ伏せに倒れて動かなくなった。
「先生っ!」
慌てて駆け寄ったコユキは、乱暴に善悪を蹴り転がして仰向けにさせ、心配そうに顔を覗きこんだ。
動かない善悪の胸倉を掴み、少し上に引き上げながら、揺すりつつ大声で友の名を呼ぶコユキ。
「先生! せんせ…… 善悪! 善悪! 確りしてよ! ぜんあ…… よしおちゃん! 目を覚ましてよ、よしおちゃん!」
「……」
「グスッ…… よしおちゃん…… よしおちゃあぁぁぁーん!」
「むにゃむにゃ…… あ、あれ? こゆきちゃん? ……ザトゥヴィロは?」
コユキの魂の叫びが善悪を冥府(めいふ)から呼び戻したのだ。
「よ、良かった。 よしおちゃ、善悪先生。 グスッ……」
コユキは安堵の嘆息(たんそく)を吐いて、掴んでいた善悪の胸倉から手を放した。
ゴッ!
丁度下にあった敷石に、後頭部を打ちつけた善悪の意識は再び刈り取られるのであった。
戦い過ぎて、日が暮れて。
あの後、如何(いか)に力持ちのコユキであっても、流石に巨漢の善悪を運ぶ事は出来ず、止む無く寺の脇に設(しつら)えられていた防火水槽の水を、バケツでザバーっとやって善悪を起こした。
ボウフラ塗れ(まみれ)になった善悪に肩を貸して庫裏(くり)に戻った後は、まず善悪がシャワーを浴びた。
戻って来た善悪と入れ替わるように、汗を流したコユキがスッキリして台所を覗いたが善悪の姿が無い。
いつもなら、食事の準備で忙しく動き回っている時間だと言うのに? と不思議そうな表情を浮かべながら居間に入ると、座卓に突っ伏した善悪が、すやすや眠っていた。
――――珍しいわね。 善悪が居眠りなんて、いつも元気に動きまくってるイメージしか無かったのに、あ、でも考えてみたら今日は結構無理させちゃったよね。 楽しくなってつい張り切り過ぎちゃったか~。 わがままだったかな? 気を付けよう
「いつも、ありがとうね。 よしおちゃん」
小さい声でそう呟くと、コユキは善悪を起こさないように静かに居間から出て行った。
この日の特訓の成果か、どこかに体をぶつける事もなく、スススっと台所へ向かうのだった。