テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
リフェアリー
128
相模湖を過ぎたあたりで、現金が終わった。
終わった、というのは、要たちの財布の話ではない。世界の話だった。
山あいの集落に入ると、店はなかった。代わりに、集落の入口の空き地に、ブルーシートが広げられ、その上に、物が並んでいた。米。芋。卵。薪。缶詰。古い電池。靴。
値札は、なかった。
「いくらですか」要は、米の前に座っていた老婆に聞いた。
老婆は、要の顔を見て、それから荷物を見た。
「何を持ってる」
「現金なら」
「紙はいらん」老婆は言った。「食えん」
要は、荷物を開けた。乾パン。水。着替え。ノート三冊。割符。印。どれも、米と交換できそうになかった。
「薬は、ないか」老婆は聞いた。
「薬」
「孫が、熱を出してる。解熱剤が、あれば」
つむぎが、自分の荷物から、小さなポーチを出した。鎮痛剤の箱が一つ。半分残っている。
「これで」
老婆は、箱を取って、裏を見て、錠剤を数えた。六錠。それから、米の袋を見た。
「……二キロ」
「二キロ」
「六錠で、二キロ。熱が下がれば、五キロだったが、下がるかどうかは、わからん」
要は、その言葉を聞いて、動けなくなった。
熱が下がれば五キロ。下がらなければ二キロ。老婆は、薬の値段を、薬の効果で決めようとしていた。でも、効果は、後でしかわからない。だから、今は二キロ。
価格がない、とはこういうことだった。
昼過ぎまで、要は空き地で、交換を見ていた。
薪一束と、卵三個。靴一足と、芋五キロと、交換を断られた缶詰。古い電池四本と、米一キロ。どの交換も、長かった。双方が、物を手に取り、裏返し、数え、匂いを嗅ぎ、首を振り、また数えた。一つの交換に、十分かかった。二十分かかるものもあった。
速さ、というものが、この空き地には存在しなかった。
「遅い」瑠衣が言った。
「遅い」要は同意した。
「金があれば、一瞬だ」
「金が、ないんだ」
正確には、金はある。千円札は、要の財布にある。東京では、まだ王だった。でも、ここでは紙だった。この集落の人間は、千円札を持って、どこにも行かない。だから、千円札は、ここでは何も表さない。
金は、記号だ。記号は、受け取る側が「これは何かを表す」と信じたときにだけ、価値を持つ。
それが、消えた。ここでは、米は米で、薬は薬で、薪は薪だった。何も、何かを代理していなかった。
要は、ふと思った。
これは、ゼロが作った世界の、極限だ。記号が、何も代理できない世界。全部が、現物。全部が、対面。全部が、遅い。
そして、この世界は、回っていた。
遅く、不便に、小さく。でも、確かに、回っていた。老婆の孫は、熱が下がるかもしれない。つむぎは、米を二キロ持っている。
「要さん」
つむぎが、米の袋を抱えて立っていた。
「さっきの、おばあさん。熱が下がったら、五キロって言ってた」
「言ってた」
「でも、私たち、明日には次の村にいる。下がっても、五キロはもらえない」
要は、うなずいた。
「もらえない。それが、問題だ」
「後で」というものが、この空き地には、なかった。全部、今だ。今、物と物を、その場で交換する。後で払う、後で受け取る、という約束は、記録がなければ成立しない。記録は、信じられない。だから、約束がない。約束がないから、全部、今、ここで、現物で、終わらせるしかない。
要は、荷物の中の、一本の木を思った。
割符。
一本の木に約束を書いて、真ん中で割る。半分ずつ持つ。後で合わせる。
「後で」を、木で作る道具。
要は、空き地の端に、倒れた丸太があるのを見た。
「瑠衣。ナイフ、持ってたか」
「あるけど」
「貸してくれ」
要は、丸太から、手のひらほどの枝を一本、切った。乾いていた。要はそれを、両手で持って、老婆のところに戻った。
「おばあさん。もう一つ、約束を、しませんか」
老婆は、怪訝な顔をした。
要は、枝に、ナイフで字を刻んだ。『薬六錠。熱が下がれば、米三キロ、追加』。日付。自分の名前。老婆の名前を聞いて、刻んだ。
それから、枝を、縦に割った。
乾いた、短い音がした。
(第13話「割符」へ続く)
コメント
1件
要さんが「動けなくなった」ところ、すごく心に残りました。お金が通じない世界で、薬の効き目で値段が変わるって、全部が“今”の勝負なんですね。最後の割符のアイデア、かっこよかったです。現物だけの世界に“後で”を持ち込む発想に、胸が熱くなりました。続きすごく気になります!🌷