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【拾肆話】
暗闇に浮かぶ灯り。照らされた土間。窓越しの不鮮明な視点。緋色の景色。そして空気を劈く高い高い笑い声。
白い肌に着物を肩に掛け、露になった肌を隠しもせず只彼女は笑ってゐた。
気が触れた様な異様な声。肩を揺らして天を仰ぐ声の主。
その前で打ちのめされた様に姿勢を歪め、すすり泣く影が震える。疲弊した心の断末魔の様に聞こえる吐息が切なく胸に迫った。
手に持たれた真っ赤に焼けた火掻き棒が気狂いの様に笑う少女の肌を撫ぜる。ひぃひぃと笑う声。痙攣した様にすすり泣く声。
儂(わし)は夢でも見ているんじゃろうか。
もし彼女が笑うでは無く、泣いていたのだったら
夢でも現実でも飛び出していけただろう。
この不可解に妖しい光景を、胸に沸き立つ何かを払拭する様に体を動かす事が出来ただろう。
痛みを受ける者は笑ってゐる。与える者は泣いてゐる。
最早、二人で完結しているその世界に介入など赦されない気がした。そしてその異様さに、妖しさに目を背ける事が出来ずに
――儂は只、見てゐただけだった。
煌々と照る灯り、泣く影と共にゆらりゆらり。
座ったまま笑う壊れた仕掛け人形。ゆらりゆらり。
壁に映った影がまるで魍魎の様に蠢き、視界を歪ませた。
まるでその空間が人の体内の様に赤黒く脈打つ様に見えた。
戦争が儂から全てを奪ってしまった。
息子も、娘も、嫁も、母親も、父親も、家も、全て、全て。
ここの家の人はよくしてくれた。
各々が儂に優しく接してくれた。
立場を弁えず儂はまるで彼女達を子供の様に思っておった。
離れに住まわせて貰っているから一つ屋根の下――とは云わぬかも知れぬが
毎朝、儂に挨拶をしてくれた。毎晩同じ食事を取った。儂で出来る事が在るなら何だってした。
家族の様な気がしていた。
その風景はそれが錯覚だと儂に知らしめた。
心中など何も分からぬ。何が家族か。
無理やり出張る事も出来ず。何が家族か。
多少の無理も通るのが家族ではないか。
切っても切れない絆が在るから家族では無いか。
あの時、得も忘れえぬ妖しく恐ろしく美しい光景に只、鳥肌を立て魅入っていただけではないのか。
家族等では無い。儂は独りだ。
いや、そもそも人間は独りなのだ。
独りで無いと思っていた事が錯覚で在ったのだ。
それでも日一日を重ねる事で出来る何かが在ると信じていたのだ。
愚かな愚かな爺だ。長く生きようとも何も得ては居ないでは無いか。涙が出た。年を取ると脆くなる。
只、それでも儂はこの家の人が好きじゃ。
幸せに生きるよう願う位は赦されよう。
どうか――どうか――。
***
志津子さんに連れられて遙さんは行ってしまった。
後に残されたのは重苦しい静寂と困惑と疑惑と静まらぬ動悸。
固まっていた蒼井さんは足早に茶卓へ戻ると残っていたお茶をぐっと豪快に飲み干して深い深い溜息を付いた。
「――家族の事は中々首を突っ込めません。
彼女自身が助けを求めて来ない限りは――」
「どんなに傍から見て奇妙に映っても家族には家族の積み重ねや説明し切れない諒解が在るからね。」
私も茶卓に戻り、同じ様に茶を飲んで言った。
「私は遅かったのでしょうか――」
「まだそうとは決まった訳では――」
裏づけが無い上で迂闊に動くと壊さなくとも良いモノをも壊してしまう。
「幼い頃、そう思いました。そして後悔しました。
証拠が無いからと自分を――」
「まだ、彼女は助けを求めていない」
「もう――です。もう彼女は助けを求める事を――」
そうか、求める事を――諦めてしまった――かも知れないのか。
そうだとしたら――我々がここに来た事で出来る道は無いのか。
きっと彼女から幾ら話を聞き出そうとも彼女自身が何らかの形で内部告発をしない限りは道は閉ざされ、我々は只、波紋を広げるだけの無用な風に過ぎなくなる。
表面だけを揺らす。底は何も変わらず、只泥が滑りを帯びそこに佇み続けるだけ。
―――カツン。
将棋の駒の音がまるで波紋が産まれた音の様に室内に響き、音の輪を広げる。空気は振動し、気落ちしそうになった心が少し冷静になる。
「其れ(虐待)かどうかは知らない。分からない。けどもしそうで在ったとして親から彼女をぶん取れば解決するのですか?それとも親の罪を露呈させて銃弾すれば終わりなのですか?」
――この件は。
野々村は詰め将棋でもしているのか何度も駒を鳴らした。
「今なら私、彼女一人位なら養える位の収入は――」
「助けると云うのはそう云う事では無い気がします。」
「ではどう云う――」
「答えなど――」
駒が鳴る。――鳴る。――鳴る。
言葉は――待っても来ない。
茶卓からは彼の背中しか見えない。蒼井さんは顔により一層不安を浮かばせた。
瞳が空ろだ。彼女の後悔して止まない時間を振り返ってるのであろうか。
「とりあえず此処の全体像が把握出来て居ない限りは
何も出来ないので――」
「教授。――遙さんは強いね。」
言葉を遮られて野々村の背を見る。彼は感心する様にしみじみ云った。それが酷く場違いな態度に思えた。
ずっと母親からこういった扱いを受けているのだとしたら強いのだろう。そんな状況下においても彼女はああも聡明で居られるのだ、精神力としては強靭とさえ云える。
私の知るケエス(事例)では自分の意識内に異なった人格を作って自分を保護したり、自らの自覚症状の無いままに陰に篭り社会と自らの感情をまるで仕舞い込む様に縮め、内へ内へ小さくなる欝を発症してみたり、
室内の圧迫感に恐怖心を抱いて突如混乱を起こしてみたり知らない人間を見ると呼吸困難になったり、そうした障碍を持った上に過剰に人の注意を引いてみたり、
自傷行為を繰り返してみたり、自分は平気で無敵であると不自然な程周囲に訴えかけたり、要するに何処かに歪(SOS)を感じさせる様な特徴が出てくる筈なのだが。
今の所、引っ掛かるとしたら自傷行為――あの傷。真っ直ぐに付いた火傷に切り傷。無理やり押さえつけられて付けられた傷ならあんなに真っ直ぐは付くまい。
もしあの傷が虐待では無く精神的に圧力を掛けられた歪が自傷行為として成ったと云う事も在り得るのだろうな。
蒼井さんは行動を焦るだろうが、矢張りまだ答えを出して動く道先を考えるには早計としか云えない。そして首の後ろまで自分で傷つける事は出来まい。幾ら体が柔らかくても他にもっと容易に傷つける事が出来る場所が在るだろうに。
「お邪魔致します――。」
不意に屋敷に響いた聞き覚えの在る掠れた声。
私は屋敷の住人でも無いのに玄関へと歩を進めた。
軋む廊下、その音が何故か妙な不安を増長させる様に感じた。
玄関にたどり着き少し顔を覗かせると志津子さんが来訪者の相手をしていたのが見えた。
来訪者は黒い手帳を彼女に見せた後なのか胸元にそれを仕舞っている所だった。見覚えのある針鼠の様なあの頭に無精髭――あれは――
「お、先生さんでは無いですか!」
――樋口だ。彼はその荒い風貌に似合わぬ人懐っこい笑顔でもって
私に声を掛けた。
「あら、六華教授のお知り合いで――」
「ええ、古い知り合いです。」
「戦争の繋いだ仲です。」
彼はそう云ってへへへ、と照れくさそうに笑ったので私も釣られて笑った。
志津子さんは特に表情を変えもせずに「お食事の用意がもうすぐ出来ますので。お知り合いでしたらご一緒に――」そう云った。
意外だった。彼女が何かを隠しているのなら警察である樋口など一刻も早く追っ払いたい筈の招かれざる客なのだが、あっさり訪問を許した。
顔色を伺おうと彼女を見る。彼女は何も言葉を発する事の無い私を不審に思ったのか私を振り返る。樋口もまた私を見る。
「そこまで――甘える――訳には――」
「久しぶりに娘が楽しそうな顔をしたのを見ました。あれも療法の内なのでしょうか――こんな田舎に引き篭もって仕舞っているもので感情を表現する事がどんどん下手になってしまって――これでもご来訪を感謝しておりますのよ。そのご友人ならば――」
頭の中で色々巡りすぎて言葉が出ずに只、彼女を見つめた。
彼女も私を見つめた。静かな空間。開け放たれた玄関の外で鳥が鳴いた。
そして樋口の腹の虫も鳴いた。
「変わった鳴声の鳥も居るものだなぁ―――」
誤魔化そうとでも云うのだろうか、彼は後ろを見てそう云った後、こちらの顔色を見た。
私は非常に冷たい目で見ていたのだろう、心底何云ってるんだ、と思っていた。そして彼女は――背中しか見えてないので表情が判らないが似たりよったりなのだろう。
樋口はうな垂れた。
「――嘘です。俺です、すいません。腹――減ってたもので。」
彼女は笑った。私は苦笑した。樋口は赤面して俯き、何度も首の後ろを掻いた。恥ずかしくて居たたまれないのだろう。そんな樋口を見て更に彼女は笑った。
「久しぶりに――笑いました。どうぞお入り下さい――な」
笑いが収まらないのか彼女は言葉を途切れ途切れ紡ぎ、その小さな肩を震わせた。
「そんなに――笑わなくても――」
樋口は赤面したまま口を尖らせた。むさ苦しい事この上ない。そんな姿を見て彼女はまた噴出した。
人が笑うのがこんなに嬉しいと思った事は無かった。
鬱々と考え込んでいたから余計にそう思ったのかも知れない。
ずっと彼女は何か悲しみを堪えている様に見えたから。
玄関を上がってくる樋口を見た。彼は私を見て悲しそうに笑った。
警察が何の用事も無くこんな所に来る訳が無い。何か在ったのだ。
この家が関係する様な何かが。
廊下が軋む。不安になる。私は樋口に問う。実に簡潔な事を。
「何が在った?」
「――只の世間話をしに来ただけだよ」
【続く】