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「室長、急ぎの案件です。お願いします」
「はい」
自分のデスクに戻った途端、声をかけられた。
世間的に言えば今日は日曜日で企業はお休みのはずなんだけれど、繁忙期のため社員の3分の1ほどが出社している。
「先ほど社長からお電話がありました。戻られたら連絡が欲しいとのことです」
「はい」
数時間席を離れただけで、仕事は容赦なくたまっていく。
私、本郷悠里は父が社長を務める本郷商事の企画推進室長。
もちろん娘だからって事もあるけれど、入社以来6年間必死に働いて今の地位を手にしたと思っている。
「室長」
「はい」
手際よくデスク周りに置かれた書類を整理しながら、今度は何よと声のする方を振り返った。
あれ?
そこにいたのは、意外な人。
本郷商事の事業部長、田川律也さん。
30歳の若さでこの会社の将来を担うと期待される人。
そして、私の将来の旦那様でもある。
「どうしたんですか?」
上司である彼なら、私を呼び出せばすむことなのに。
「会議が長引いたから、お昼まだだったら一緒にと思ってね」
ああ。そう言えば、食べてなかった。
「でも、まだ急ぎの書類が残っていて・・」
やんわり断ろうとした私に、
「ダメだよ。また飲み物だけで終わらせる気でしょう?」
うっ、否定できない。
「ほら、いくよ」
私の返事なんて待つことなく、律也さんは歩き出した。
「ま、待って」
こうなったら後を追うしかない。
***
「はい、どうぞ」
目の前に置かれた社食のランチ。
「ありがとう」
窓際の一角に私達は向き合って座った。
今日のランチは肉じゃがと白身魚のフライか。うん、美味しそう。
「昨日も遅かった?」
「うん」
仕事が残っていて日付が変わるギリギリだった。
でも、父さんも出張中でうるさく言う人がいないから油断してしまったのも事実。
私は一人っ子で姉弟はいないし、体の弱かった母さんも小学校に上がる前に亡くなった。
父さんと祖父母に育てられ不自由は感じなかったけれど、母のいない寂しさはいつも感じていた。
その祖父母も10年前には亡くなり、今は父さんとの2人暮らし。
誰も私の行動を制限する人はいない。
自由気まま、そんな生活に慣れて久しい。
「無理しないでね」
「はい」
素直に返事をした。
今の私にこんな事を言ってくれる人は多くないから、ありがたく聞いておこう。
***
ブブブ。携帯の着信。
ん?
潤からだ。
「ちょっとごめん」
律也さんに断って電話に出る。
「もしもし」
『潤だけど。あの・・・』
言いよどむ声。
何かおかしい。
「どうしたの?」
そもそもこんな時間に電話なんて珍しい。
「鷹文を、見つけた」
「え?」
今度は私が黙り込んでしまった。
浅井鷹文。
私の元彼。
8年前突然姿を消したその男を私はずっと探していた。
それが今さら・・・
『大丈夫か?』
「うん。驚いただけ」
きっと潤も驚いているはず。
「今夜会う約束をした。お前も来るか?」
「う、うん」
随分急だな。覚悟も何もあったものじゃない。
「無理しなくてもいいぞ」
「大丈夫。私も会いたい」
これは嘘じゃない。
でも・・・不安なだけ。
私が最後に見た彼は、ボロボロだったから。
「安心しろ、あいつは元気だ」
「・・・そう」
良かった。
私は少しホッとした。
悔しいけれど、電話の向こうの友人、白川潤には私の気持ちが筒抜けらしい。
「様子を見て電話する。遅くなるかもしれないが、待っていてくれ」
「わかったわ」
何の連絡もなく姿を消した恋人にやっと会える。
それはうれしさよりも古傷がうずくような、不思議な気分。
でも、会わなければ先には進めない。である以上、私は会いに行く。
***
「白川先生?」
「うん」
ぜんそくの持病を持つ私の主治医である潤のことを、律也さんは白川先生と呼ぶ。
もちろん、私と潤に関わる過去も知っている。
すべて知っていて深く追求はしてこない。
今だって、今夜会うのは気づいたはずなのに何も聞かないでくれる。
そんなところが大人だなって思う。そして、その優しさに甘えている私がいる。
会社に入って6年。
社長の娘だからとうがった目で見られながらも、必死に働いてきた。
一人娘である以上は私が本郷商事を継ぐんだと思ってきた。
海外勤務だって出張だって男の人と同じだけこなして、やっと社内で評価され始めた頃、父さんがいきなり律也さんとの縁談を持ち出した。
「お前がイヤでなければ、田川くんとの結婚を考えてみないか?」
「はあ?」
もちろん驚いたし、絶句した。
しかし父さんは結構本気で、
「急ぐつもりはない。1度考えてみてくれ」
それから時々律也さんを家に呼ぶようになった。
何度も一緒に食事をし、お互いのことを知るうちに、私も真面目でいい人だなあと感じた。
この人との暮らしも悪くないと思えるようになり、自然と結婚を意識するようになった。
急ぐ必要はないからと言う父さんに従って、私が30歳までには結婚しようという話になっている。
「あまり遅くならないでね」
「はい」
「それと、もう少し食べて」
視線は減っていかない私のお皿に向けられていた。
「はぁい」
進まない箸を動かしながら、我ながら不思議な関係だなと溜息をついた。