◇◇◇
コウカとユウヒは邪族が築いた城への侵入を果たし、その廊下を進んでいく。
「…………」
「……静か、だね」
「はい、少し意外でした」
城の中には邪族も邪魔《ベーゼ》もいない。それどころか彼女たちの足音以外、物音ひとつすらないのだ。
それでもコウカは警戒を解くことなく、足を運んでいく。
「マスター、アンヤは?」
「すぐ近くに、感じる……」
ユウヒが感じている朧月との繋がりに従うこと数分――2人は大きな扉の前に立っていた。
「この気配、邪族の……」
それがアンヤのものかはわからない。
だが先日、ニュンフェハイムで別れた際には意識しなければ感じることができなかったほどの邪族の気配。それが扉越しでも色濃く漂ってきていた。
「……いいですか?」
「……お願い」
顔に不安を滲ませながらも覚悟を決めた2人。
コウカがその大きな扉に手を掛け、開け放った。
「――謁見の間?」
彼女たちも何度か訪れたことのある王との謁見のための部屋に酷似したため、そう言葉を漏らした。
そして周囲を注意深く見渡していたコウカは玉座らしき椅子の上に人影を見つける。
「アンヤ……! アンヤ!」
ドレスのような装いに変わっているとはいえ、見間違うはずがなかった。ユウヒを背負いなおしたコウカはアンヤへと駆け寄っていく。
玉座の肘置きに異形の右腕を乗せ、項垂れるアンヤの表情は見えない。
だがコウカが近づいていくとそれに気が付いたのか、アンヤはゆっくりと顔を上げた。覇気のない銀色の瞳がコウカを捉える。
「……ぁ」
「アンヤ……よかった……」
色濃く邪族の気配を漂わせてはいるもののその瞳の色は見慣れたもので、敵意も一切感じられなかった。
そのことにコウカとユウヒは安堵する。
邪族の気配を漂わせているということで変わった場所も多く見受けられた。
手入れをしていないであろう乱れた髪の先は黒から白へのグラデーションになっていたはずだが、今は彼女から見て右半分が黒一色に染まっていた。
また異形の右腕から白い肌に黒い線のようなものが、まるで侵蝕していくように幾重にも広がっており、それは右脚や首を伝って目元まで伸びているようだった。
だが髪と同様で右半身に止まっていることから、彼女自身への侵蝕はまだ完全ではないことが伺える。
「アンヤ、迎えに来ました」
「……帰ろうよ、アンヤ。私たちと……一緒に帰ろう」
声に釣られて憔悴しきった表情のまま、視線を横にずらしたアンヤの瞳がユウヒを映す。
「ぁ……あぁ……」
その顔を見るだけで慄き始めたアンヤは意味のない音を漏らすだけで何も言葉を発しない。
「みんなも……アンヤのことを待ってるよ、さあ」
「……もう、アンヤは……いない……」
小さな声だが、確かに彼女の意志で発せられた明確な言葉だ。
だが、それが拒絶の言葉であったため、ユウヒは悲しそうに表情を陰らせた。
「……いるよ。今、私の目の前には確かにアンヤがいる」
「……違う。私は邪族、あなたたちの敵……そうなる運命だった……」
「運命なんて……」
「……全部偽物だったの……! あなたが言った“優しいアンヤ”も全部……全部、嘘だった……っ!」
左拳で自らの左目を上から強く押さえつけた。それに伴い、アンヤの纏う雰囲気が変化していく。
コウカとユウヒの感覚が激しい警鐘を鳴らし始めた。
「アンヤ、落ち着いてください!」
「もう一緒にはいられない……傷つけることしかできない、から……私は……!」
彼女の血のように赤い右目がギロッとユウヒを捉える。
直後、アンヤの体から強烈な力の波動が溢れ出し、無風だった部屋の中に風が吹き荒れる。
そのため、暴風の中心から逃れるようにコウカは壁際まで後退していった。
――そしてユウヒの体を壁にもたれ掛からせると、腰に携えていたライングランツを手に取る。
「マスターはここにいてください。アンヤはわたしが……」
「待って……戦う気なの……!?」
コウカが見つめる先には苦しみながら、玉座からフラフラと立ち上がるアンヤの姿があった。
黒い波動を体に纏わせている彼女から感じられる邪族の気配は最初よりもさらに大きなものに変化している。
「あの様子では、落ち着いて話ができるようには見えません。それに……わたしたちに残された時間も多くない」
「コウカ……っ!」
そう言ってライングランツを構えるコウカの背中に、ユウヒが今にも泣き出しそうな声で呼び掛ける。
すると彼女は振り返り、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。わたしだってこのまま諦めるなんて、絶対に嫌ですから」
再び前を向いたコウカが駆けだす。
それをユウヒは固唾を呑んで見守ることにしたのだった。
そして――。
「アンヤ」
「…………っ」
コウカが呼び掛けた途端、アンヤの見開かれた右目は彼女を捉える。
同時にバチバチと黒い稲妻のようなものを巻き散らしている異形の右腕がピクリと震えた。
「ごめんなさい、わたしはあなたに剣を向けてしまう……傷つけてしまう。あなたたちと立てた誓いも破ることになるのかもしれない……でも、たとえそれで咎められようとも、わたしはこの道を選びます」
そう告げるコウカの目に迷いはない。矛盾した想いを抱えていようとも、今の彼女はその矛盾にもまっすぐ向き合っていた。
相変わらずアンヤの右目はコウカを捉えて離さないが、左目のほうは先ほどの言葉を聞いて忙しなく泳いでいる。
――だが、やがて目を伏せた彼女はポツリと呟いた。
「……なら、手遅れになる前に……あなたの手で……殺して……」
「絶対に嫌です。でもすごく痛いので、痛覚は遮断しておいてください」
そう啖呵を切ったコウカはアンヤと対峙したまま思考する。
(あの右腕さえ切り離してしまえばいい。……魔力は残りわずか。だとしても、わたしは――)
コウカは重心を落とすと同時に駆け出した。
そうしてアンヤへと肉薄した彼女はその相手の右腕に向かって剣を振り下ろす。
すると標的である異形の右腕と侵蝕の進む彼女の右脚が反応し、一歩前に踏み出した状態で手のひらを使ってコウカの剣を受け止めた。
その直後、接触した部分からライングランツが消失していく。
「なっ!?」
すぐにアンヤとの距離を取ったコウカだが、ライングランツの消失が止まることはない。
そのため彼女はそれを一度手放し、自らの魔力と精霊力、そしてユウヒの力を犠牲に再構築する。
やむを得ないとはいえ、ただでさえ残り少ない自分の力とユウヒの力を削ってしまう形となるコウカ。彼女の頭の中では後悔と疑問が渦巻いていた。
絶対に折れないのがライングランツの持つ不変の性質であるはずなのだ。
「どうして……」
「……この力は、魔力を食らって侵蝕を続ける……霊器じゃ攻撃は通らない……」
「そういうことですか……」
答え合わせをしてくれたのはアンヤだ。彼女は自分に宿っている力ということで多少なりともその性質を理解していた。
(それにしてもさっきの侵蝕……何かが……いえ、今は……)
少し引っ掛かりを覚えたコウカであったが、考えを振り切ると再びライングランツを構えた。
「……霊器じゃ駄目だと――」
「アンヤ。やっぱり体の自由は利きませんか?」
「……どうして……」
アンヤが瞠目する。
それに対して、コウカは事無げに告げた。
「分かりますよ、動きがあまりにもアンヤらしくないですし……それにアンヤがマスターを傷つけるわけがありませんから……」
「……どうしてっ……私はもう、アンヤじゃないのに……っ。あなたは……」
「もう一度、行きます。アンヤ!」
再度接近してきたコウカをアンヤの右腕が迎撃しようとする。
――その瞬間、コウカは地面を強く踏みしめた。
「【ライトニング・ステップ】!」
急加速し、アンヤの後方まで移動したコウカはその右肩の付け根に向かって剣を振り下ろそうとするが、振り向きざまに黒い腕が振るわれたことで攻撃を断念、間一髪体を後ろに逸らすことでその攻撃を避ける。
「反応されたっ!?」
「……私が反応してしまうと、体も……っ!」
「ならこれはっ!」
再び加速したコウカは捕捉されないよう、小刻みにステップを踏み続ける。
そしてアンヤの目前で背後に回ったと見せかけて、さらに半周回り込むことで元の位置へと戻ってくる。
アンヤの体は背後に移動した光の軌跡を追いかけたまま、正面を向いていない。
(行ける! ……ッ!?)
だが踏み込んだ時、赤い瞳と視線が交差し、無理矢理な体勢から繰り出された異形の右手がコウカに掴みかかろうとする。
それをコウカは受け身を取りつつ、転がるような形でなんとか回避した。
(追撃は……っ! ……来ない?)
すぐに膝を突いた状態で起き上がったコウカはアンヤを見るが、無防備を晒していたにもかかわらず彼女の右腕から追撃される様子はなかった。
――いや、今も赤い瞳はコウカを捉え、右腕もコウカに向けてまっすぐ伸ばされている。そして体は前に進もうという体勢のまま震えていた。
(そういえば、アンヤはあの場所から一歩も動いていない……?)
迎撃はするもののあちらから攻撃する素振りはなく、追撃もない。それによく見れば彼女はずっと苦悶の表情を浮かべている。
そこでコウカはハッと気付いた。
(アンヤが抑えようとしているんだ。それにさっきの侵蝕の違和感……あれがもしマスターを蝕んでいるものと同じなら、どうして侵蝕の速度があんなにも違う。……ずっとこの子はあの力を抑えようとしていたんだ)
真実を知ったコウカはゆっくりと立ち上がり、剣を構えた。
「やっぱり、何も間違ってなんかいないじゃないですか」
彼女は名を失っても何も変わってはいない。いくら本人が否定しようがそれが真理だ。
今もあらゆるものから堪えるように抑えつけている彼女を解放してあげたい。そう願い、コウカは再び立ち向かう。
「もう一度、行きますよ」
――そしてその後も、幾度もの突撃を繰り返したコウカの呼吸は乱れ始めていた。
「……ふぅ……もう一度、行きます」
呼吸を整えたコウカが立ち上がって剣を構える。
「……もうやめて。ただ殺すくらいなら……難しいことじゃ、ない……抑えるから……まだ間に合うから……私を……」
「諦めるなんてありえません。たとえ嫌がっても、無理矢理にでも、絶対にあなたを連れて帰る! マスターやみんなが望んだからじゃない! 何よりもわたしが望むことだから! だからアンヤ、あなたも絶対に諦めないで!」
コウカからの激励にアンヤの表情が悲痛なものへと変化する。
「……どうして、そこまでっ……」
「わたしとアンヤは家族でしょう! わたしはあなたの姉だから。お姉ちゃんは妹のためなら何度でも頑張れる生き物なんですよ!」
「――ッ! どうしてっ……あなたは……! あなたが……そんな、あなただから……あなたたちだから……私は……! もう全部、無駄なのに……これが運命なのに……!」
「その運命というものが今もあなたを縛り付けていて離さないというのなら、わたしがそれを断ち切ります! 断ち切ってみせます!」
ここまで何度も挑んだ結果、コウカは異形の右手やアンヤの反応についてほぼ完璧に把握していた。
いや、感覚的に理解していると言った方がいい。
具体的な戦い方を考えると頭がこんがらがるので、彼女は自分の感覚に全てを任せてみることにした。
最初にコウカは駆け抜けると同時に雷魔法をアンヤの眉間を目掛けて撃ち込む。当然、それを打ち消そうと異形の右腕は反応する。
だが雷魔法を打ち消そうとした一瞬、アンヤの視界から腕の陰に隠れてコウカの姿が完全に消える瞬間が訪れる。
――その一瞬を狙い、コウカは体に稲妻を纏って地面を蹴り出した。
移動する先はアンヤの左側方。驚いたように見開かれたアンヤの銀色の瞳とコウカの金色の瞳が交差する。
ここに移動したのは決して攻撃のためではない。それでも視界が捉えた敵に異形の右手は反応する。反応してしまう。
異形の右手自体に思考能力はない。その行動は全て反射的なものだ。だからあからさまな誘い出しにも引っ掛かる。
標的を捉え、瞬間的に伸ばされる右腕。そこでコウカは少し後方へ下がった。
当然、右腕はそれを追い掛け、アンヤの全身もそれに追従するような形となる。
右腕はただ標的を捉えようとするため、姿勢が不安定なものになることすら厭わないのだ。
そうして右腕が伸びる範囲ギリギリまで伸ばされた瞬間、一気にコウカが動き出した。
稲妻を纏って姿勢を低くすると同時に急加速し、コウカはアンヤの脇下、掠るのではないかというくらいギリギリを潜り抜ける。
反応の良い異形の右腕は瞬時に対応しようと動くが、体勢がそれを許してはくれない。
それでも触れるだけで侵蝕が始まるので無理な体勢でも追いかけようとする右腕から逃れつつ、コウカはアンヤの脇下を抜け切る瞬間に片手でライングランツを振り上げた。
ただ振り上げるだけでは離脱の速度についていけないが【ライトニング・ムーヴメント】という魔法で体自体の動きを加速させた。
今回の場合、剣を持った右腕だけを強化しその振り上げる速度を急加速させている。
斬り付けるのは異形の右腕ではない。その右腕とアンヤの白い肌の境目ギリギリだ。
そこを鋭い刃が切断し、切り飛ばされた右腕が宙を舞った。
――その直後、アンヤに纏わりついていた黒い波動が霧散していく。
「ぐっ……うぅあ……」
「ハァ……ハァ……アンヤ、大丈夫ですか……?」
地に膝を突いたアンヤをコウカが気遣うようにその傍でしゃがみ込み、背中を手の平で撫でる。
彼女もまた、一気に魔力を消費したことで呼吸が荒くなっていた。
だがこうして背中を撫でることができるくらい密着していてもアンヤが落ち着いているということは、少なくともこれで落ち着いて話せる状態となったということだ。
「……やっぱり、止まらない……侵蝕も……」
「そのこと、なんですが……」
ユウヒを侵蝕している力はあの右腕だけに宿っていた物ではなかった。今もユウヒやアンヤの体を蝕んでいることからもそれは明らかだ。
絶望するアンヤにコウカはある事実を打ち明けようとするが、それはフラフラと歩み寄ってきた少女の声が聞こえたことで中断せざるを得なかった。
「アンヤ……!」
衰弱した体をがむしゃらに動かして2人に近づくユウヒだが、途中で体勢を崩して転んでしまう。
そこに駆け寄ろうとしたコウカだが、彼女も思った以上に魔力残量が少なく、すぐには動けなかった。
「アンヤ……」
「……ごめんなさい……私……」
ユウヒは謝罪を口にするアンヤへと近づくために地を這っていく。
もう少しで触れ合える。そうして彼女の心を解し、再び契約すればきっと一緒に生きていく未来を掴むことができる。
――だが運命という言葉は未だアンヤに絡みついたままだった。
「ヒャハハ、チャンス到来ってなァ!」
「――ッ!?」
突如、この場に現れた短剣を手にしたヴァンパイアの邪族。その凶刃が身動きの取れないユウヒへと迫る。
彼女も逃れるために立ち上がろうとするが、自分の体を起こすまでが限界だった。
「マスター! ぐっ……いや……!」
すぐにユウヒを守るために彼の前に立ちはだかろうとするコウカであったが、消耗した体はそれを許してはくれなかった。
それでもライングランツを支えにして足に力を入れるが、到底間に合うものではない。
「――ダメっ!」
その時、凶刃とユウヒの前に小さな影が飛び込んできた。
「なにっ!? 何のつもりだ!」
短剣に貫かれていたのは――アンヤだった。
「アンヤっ!」
「チィッ! 邪魔だッ!」
なんとか立ち上がっていたコウカが激昂し、満身創痍の体で邪族に切りかかる。
そして邪族は短剣に貫かれているアンヤの体を蹴り飛ばし、コウカと相対した。
「アンヤ! マスター!」
蹴り飛ばされたアンヤの体はそれを受け止めようとしたユウヒの体ごと吹き飛ばされ、地面を転がりながら壁に打ち付けられた。
◇
私の目の前には右腕を失い、胸の中心に短剣が貫通した痕を残した痛々しいアンヤの姿があった。
そして私も既に満身創痍だ。アンヤの体が壁との衝突による衝撃から守ってはくれたが、今の私の体では吹き飛ばされたときの衝撃も相当なダメージとなっているらしい。
たしかに辛い。でも、そんなものを気にしてはいられなかった。
「う……ぁ……アン、ヤ……そんな……」
「……ちゃんと……体……動いて……くれた……」
「アンヤ……!」
「……きっと……これで、良かったの……」
良かっただと。こんなことが良いものか。いったい何が良いと言うのだ。
アンヤの喪失した右腕はその肩口が蠢き、再生しようとする兆しを見せているが胸の傷は別だ。
再生するための魔力がないわけではないだろうが、どういうわけか一向に修復されない。
「なんで……そんなこと……」
「……侵蝕は、根源が残る……限り……続く。……だから私が……ここで消えれば……あなたの侵蝕は……消える」
シズクの言っていた通りだ。
だからこの子はここで死ぬ気でいるというのか。それで良かったと言いたいのか。
「……私には……選べなかった。あなたたちと……一緒に歩める未来が……ないのなら、もうどうでもいいとすら……。自分で……終わらせることも、できたはずなのに……」
愕然とした。この子の中には自分で自分の命を終わらせる選択肢まであったのだ。
そうなるほどに追い込まれて、悩んで……こうして悲しい顔をしている。
「……自分勝手で…………みんなのことが……本当に……大切なら、自分で消えるべきなのに……」
「なに、言ってるの……」
「やっぱり……私は、優しくなんて……なれない。……あなたが言ってくれた……優しいアンヤなんて……嘘でしかなかった。……本当は全部……あなたたちの中に……上手く溶け込むための……」
「違う……!」
誰かのために自分の命を投げ出すことが優しさであるものか。優しさが自分を犠牲にする生き方を肯定するものであるはずがない。
だから私はその発言だけは否定しなければならない。
「アンヤは……どうでも、よくなったわけじゃない……! ただ、諦めたく……なかったんだよね……? 侵蝕も、アンヤが抑えようとしててくれたんでしょ……? この場所でじっと堪えて……何か方法はないかって考えてた。それはアンヤの優しさを否定することには……絶対にならない……!」
たしかにこの子と引き裂かれてから、心も体も辛くて堪らなかった。死の気配をずっとそばに感じる続けることは怖くて堪らなかった。
だからといってこの子を恨むことなんてありえない。
果たして、この子が死を選べば苦しみから解放されたのか。
――違う。むしろ、死を選んでいたら私はこの子のことを生涯恨み続けていただろう。
あなたにとって私たちとの関係はそうやって簡単に捨てられるものだったのかと。
そうなれば私の心は多分、おかしくなってしまう。
「……いいえ、優しさなんてない。私の心は……きっと……空っぽ。……みんなが……当たり前のように持っている……怒りも悲しみも……喜びさえも足りていない。どれも真似事に過ぎない。きっと……この魂は、最初から欠陥品で――」
「……ちがう、違うよ……! 空っぽなもんか。私たちと一緒に色んなものを見て、感じて、考えてきたアンヤの……アンヤの心には確かなものが生まれているはずなんだ……!」
「そんなはず……だって……私……」
「お願いアンヤ、自分自身を否定しないで……あなたの気持ちを、生き方を、自分から嘘になんか……しないでよ……」
「……でも……っ」
どうしてこの子がここまで頑なに否定するのかが分からない。硬い殻に閉じこもって心を凍り付かせている原因は何だ。
私にはしっかりと伝わってきているというのに。この子の心にはたくさんの想いが詰まっているというのに。
自分で分からないというのなら、私が分からせてやる。
その心を解きほぐして、もう一度自分の足で私たちの元に踏み出してもらうために。
「……知っているんだ、私は……誰かの為に頑張ったアンヤがいつも、嬉しそうに微笑んでいることを。誰かが傷つけられた時のアンヤが……静かに怒っていることを。そして、今のアンヤが……すごく悲しんでいて……今にも泣き出してしまいそうなことも。全部、アンヤの心の中にある本当の気持ちだよ……」
「……ぁ……あぁ……! 私、私の……! でも……でもっ、存在そのものが……紛い物だから……本物にはなれないっ……それが生まれた時からの……運命で……」
偽物。紛い物。運命。これらの言葉がこの子に絡みついて離さないんだ。
きっと私だけではこの子の凍り付いた心を溶かしきることはできない。私たちが一緒に過ごしてきた時間は決して2人だけのものではなかったのだから。
でも伝えられる言葉はたくさんある。
「……生まれがどうだったとか、関係ないんだ……私にとってのアンヤは今、私の目の前で泣いている……あなただから。ここに送り出してくれたみんなもそう……アンヤを偽物だと思っている子なんて……誰もいない。他の子なんて必要ない。私たちが一緒にいたいと願うのは……あなただけなんだから」
私はアンヤの固く握りしめられている左手を取った。そしてその拳を包み込むように解いていく。
こうしてまた触れ合えるだけでも泣きそうになるくらい嬉しいが、欲望というものは際限なく湧き出てくるものでこの子と手を繋いでいたくなったのだ。
――そして遂に開かれた手を見て、私は驚いた。アンヤの手のひらは切り傷でずたずたになっていたのだ。
幸いにして、理由はすぐに分かった。
「これ……朧月……?」
アンヤの手の中には鈍い輝きを放つ小さな鋼の欠片があった。欠片となり、その性質が弱まっているのか、今初めてその姿を見たが間違いないだろう。
だがよく見るとこの朧月も端から少しずつ黒ずんで、消失していってしまっている。
「……手放したく、なかった……朧気でも……この輝きだけは……」
「あぁ……そうだ……そうなんだ。アンヤが大事に守ってくれていた朧月の輝きが、こうして私たちの行く道をまた……繋いでくれたんだね。私たちが過ごした時間……紡いできた想いが導いてくれた……」
「……そう……この熱も……想いもきっと偽物なんかじゃ、ない……偽物にはしたくない。……でも、だから……もういいの……私は幸せだったから……もう、いい……」
いいわけない。もう離さない。離してたまるものか。
私は朧月の上からアンヤの手を強く握りしめた。
貫くような痛みが手から脳へと伝わり、私とアンヤの手の間から赤い血が流れ落ちる。
「ぁ……」
アンヤの手がビクッと震えるが私は構わずに手をさらに強く握る。
「何もいいわけない……ずっと、一緒だから」
「……でも……私は……邪族で……みんなの敵で……侵蝕も……!」
「敵じゃない……アンヤはアンヤだもん。それにどれも、一緒にいちゃいけない理由にはならないんだよ」
それらの問題はきっとどうにかなるものだ。
そう伝えるのは簡単ではあるものの、私は敢えてそうはしなかった。
「私はただアンヤといたい……アンヤはどうなの? アンヤの本当の気持ちを教えて……?」
一緒にいたいから一緒にいる。私たちはそれでいいんだ。
この子が自分の心に素直になれるように。そうするべきだとかいうくだらない枷を壊して、柵の向こう側からこちらへ一歩、自分の足で踏み出せるように。
そんな強い願いを込めて手を握りしめる。せめて今だけは自分のことだけを考えてほしいと私はアンヤへと祈った。
「……わ、私……私は――」
その時、かつてこの子に贈って以降、肌身離さず付けてくれていた三日月の髪飾りがキラリと煌めいたような気がした。
「――私も……一緒にいたいっ……ずっと……!」
その直後、私の中に溢れ出したのは懐かしいあの名前を贈りたくなる感覚だ。
涙に濡れた銀白色の瞳が揺れる。
「……っ、アンヤ!」
静かな夜。まるで寄り添うようにして、私たちに安らぎを齎してくれる優しい夜。
もうこの手を離すものか。
「あなたの名前はアンヤだよ……!」
「ます、たー……! うん、アンヤは……っ!」
刹那、私たちから溢れ出した光はアンヤを包み込み、その髪や体に纏わりついた歪な黒をその光の中に溶かしていく。
それに伴い、血のように赤く染まっていた右の瞳も銀色の輝きを取り戻した。
私の胸だって少しだけ軽くなる。きっと侵蝕していた力が私の中から消えたのだ。
――そして光は私とアンヤの手の内に収束する。
重なり合った手の間にあったのは鞘に収められた一振りの刀だ。
「ますたー……」
ゆっくりと立ち上がったアンヤが私の肩を掴み、支え起こしてくれる。未だに力の入らない体は彼女によって壁へと預けられた。
生まれ変わった朧月に掛けられていた私の手はアンヤの手によって包み込まれ、剥がされる。
そして彼女は自分の手に魔力を纏わせるとその手で私の傷口に触れた。私の体は親和性の高い彼女の魔力を利用して傷口を塞いでいく。
やがて私の傷が跡も残らずに綺麗さっぱり消えた時、アンヤはゆっくりと立ち上がった。
「……アンヤ」
「行ってくる」
アンヤが見つめる先にいるのは非常に厳しい戦いを強いられているコウカだ。
立ち上がった彼女の装いは見慣れたものだが、大きくなった背中が印象的だった。
また離れていってしまう彼女の背中に、半ば無意識に私は手を伸ばす。
「……大丈夫」
アンヤは振り返り、私の目をまっすぐ見つめると目を細め、口角を上げた。
「必ず、帰ってくるから」
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