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朝から続いた検査に疲れ、いつの間にか眠ってしまっていた。だから、馨の顔を見た時、まだ夢を見ているのかと思った。
「雄大さん」
一週間ぶりの馨の笑顔。
「馨……?」
「うん」
手を伸ばし、頬に触れる。
温かい……。
現実だとわかり、慌てて起き上がろうとしたが、腹部の痛みがそれを阻む。
「無茶しないで!」
馨が俺の肩を支えた。
一週間ぶりの馨の匂い。
俺は痛みに耐え、馨の腰を抱き寄せた。
「馨……」
彼女の胸に顔を埋めると、鼓動がすぐ間近に聞こえた。
ゆっくりと規則正しいリズムと、心地良い音。
「心配……した」
「ごめん……」
「死んじゃうかと——」
鼓動がゆっくりと速度を上げる。
「ごめん……」
馨が俺の髪に触れる。
昨夜、無理を言って髪を洗っておいて良かったと思った。
「ありがとう」
馨の細く、少し冷たい指先が頬をくすぐる。
猫の気持ちがわかる。
撫でられて、気持ち良くなると、自然と顎が上がる。
もっと、もっととせがむように。
「ふふ……。雄大さん、猫みたい」と、馨が笑った。
目に涙を溜めて。
「大型犬じゃなかったのかよ」
「そうね……」
目を細めると、涙がこぼれた。
俺は痛みの少ない右手で、彼女の涙を拭った。頬が熱い。
「格好良くて頼りになる大型犬で、甘えん坊の猫」
「俺を猫みたいだと言うのは、お前だけだよ」
ゆっくりと唇が重なる。そっと触れるだけの、キス。
夢を見て、死んでもいいだなんて思ったことを悔いた。
生きてて良かった——。
馨のキスが頬に、瞼に、鼻先に降り、また唇に戻ってきた。
今度は、じっくりと味わうような深いキス。
本当に、生きていて良かった————。
「生きていてくれて、良かった」
馨が、俺の気持ちを口にした。
そして、もう一度、長い長いキスをした。
馨が俺の手をマッサージするように撫でながら、言った。
「雄大さんを刺した男が逮捕されたって」
「え……?」
「警察から澪さんに連絡があったって」
「そうか」
「素直に自供してるから、黛が否認しても起訴できるだろうって」
「……そうか」
そうでなければ、怪我までした甲斐がない。
黛から桜と立波リゾートを守ることが出来て、ようやく、俺は馨との共犯関係を解消できる。
やっと、『愛してる』と言える——。
「雄大さん」
「ん?」
馨が俺の手を持ち上げ、甲に口づけた。
「『共犯者』になってくれて、ありがとう」
その言葉に、何かが引っ掛かった。
「……馨?」
「雄大さんのお陰で、黛が立波リゾートの社長になる道は途絶えた。桜も、黛との婚約解消に納得すると思う」
「ああ……」
声、だろうか。
違和感。
「本当に……ありがとう」
表情、だろうか。
ぎこちなさ。
「それでね」
仕草、だろうか。
緊張感。
「桜に会いに行くの」
「え……?」
「黛のこと、直接話したくて」
いつかを思い出した。
元彼に会いに行くと言った時も、『会いに行っていい?』ではなく『会いに行ってくる』と言った。
馨の、意外と男前なところは好きだが、心配にもなる。
「いつ?」
「明日の夕方の便で」
「明日!?」
さすがに驚いた。
「急すぎだろ! 俺が退院するまで待てよ。一緒に——」
「雄大さんが退院するまでに、終わらせたいの」
俺の言葉を遮り、馨が言った。
意志の強さを強調する、静かではっきりとした口調。少し低めの声。真っ直ぐに俺を見つめる目。
「お願い」
行かせたくない。
行かせてはならない。
けれど、今の俺に彼女を止める術はない——。
「……平内は知ってるのか?」
「うん」
「何て?」
「毎日、朝晩電話するように言われた」
気が合ったな、と思った。
本当なら、俺に電話するように言いたいが、病院にいる間はいつでも電話を受けられるわけではない。
平内に頼むのが最善だろう。
「しろよ」
「子供じゃないんだけど?」と、ため息交じり。
「約束できないなら、今すぐ退院して俺も行く」
「……わかりました。過保護な婚約者様」と、仕方なさそうに言った。
「俺にはメールしろ」
「はーい」
「それから——」
「まだ、何かあるの?」
俺は馨のうなじに手を回した。ほんの数ミリの距離に、顔を寄せる。
「誰にも触らせるなよ」
馨の瞳に自分が見えるほど近く。
触れそうで触れない唇。
交わうのは互いの息と視線だけ。
「雄大さんこそ、綺麗な看護師さんに触れられてるクセに」
「妬いてんのか?」
「怪我人じゃなきゃ、馬乗りになってるわね」
「退院したら、好きなだけ乗ってくれ」
どちらからともなく唇が重なる。
どちらも目を閉じなかった。
感触と味だけじゃ足りない。
五感全てで馨を記憶しておきたい。
夢中でキスをした。
思春期の子供みたいに。
腹の痛みも忘れて、彼女をきつく抱き寄せて、ベッドの上に居ながら、愛し合えない状況を恨んだ。
看護師が検温の為にドアをノックするまで、俺たちの舌は絡み合い、互いの味と体温を共有した。
看護師にはバレたと思う。
男女が赤い顔で息を切らしていれば、当然だ。馨に至っては、口紅はすっかり取れていた。
「じゃあ、帰るね」
馨は恥ずかしさから逃げるように、部屋を出て行った。
「ああ」
看護師の手前、そんな素っ気ない返事をしたことを、すぐに悔やんだ。
検温を終えて、火照った身体を静めるために横になった。
夕飯の時間になり、ベッド脇の引き出しを開けて目を疑った。
腹の痛みよりも激しい胸の痛みに、呼吸を忘れた。
慌てて馨に電話をしたが、電波が届かないとかなんとかと言われた。
次に平内にかけた。
同時にドアがノックされ、平内が入って来た。手には俺からの着信を知らせるスマホ。
死刑宣告でもしようと言うのか。
平内の表情に一片の笑みもなく、怪我人の俺よりも青ざめていた。
「馨はどこだ」
「……」
「どこだ!」
焦りから、場所も忘れて声を荒げてしまった。
「今頃は雲の上です」
「明日の便だと——」
「馨からの伝言です」
伝言……?
「『クローゼットのタンスの鍵を壊してしまってごめんなさい』だそうです」
クローゼットのタンス——?
三秒ほど考えて、ハッとした。
婚姻届を入れた引き出しの事か——!
「止めなかったのか」
「止めましたよ、何度も」
「どうして俺に言わなかった!」
平内を責めるのはお門違いだ。八つ当たりでしかない。
わかっていても、やり場のない怒りや悲しみを吐き出さずには正気を保っていられる気がしなかった。
「あんな馨を見たら——! ……そんなこと……」
平内が眉間に皺を寄せ、瞼を強く閉じ、唇を噛む。必死で涙を堪えているのがわかった。
「馨……泣かないんですよ」
「え?」
「部長が倒れたって聞いても、病院でご両親に頭を下げている時も、家に戻って寝込んでた時も、少しも泣かないんです。『私に泣く資格はない』って……」
つい数時間前。
俺は馨の涙を拭った。確かに。
指を濡らした温かさを覚えてる。
「高津さんと別れた時もそうでした。婚約解消したことも事後報告だったし、私の前では泣かなかった。もう……あんな馨は見たくないんです」
「俺と別れたら、馨が楽になると思うか?」
「少なくとも、自分を責めて苦しむことはないでしょう?」
平内は俺よりもずっと長い間馨のそばにいて、きっと誰よりも馨を理解している。
その平内が言うのだから、そうなのだろう。
けれど————。
「……泣いてたよ」
「え?」
「馨、泣いてたんだ」
「…………」
「俺が……馨の泣ける『場所』なら——」
俺の掌で、行き場を失くした指輪が寂し気に輝いていた。