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私立香凛こうりん大学。
首都近郊に広大な私有地と複数のキャンパスを持ち……また、それらすべてを有効活用するかのように、非常に幅広い学術分野に関する教育体制を擁する、国内屈指の名門校である。
「…………」
各駅電車が、駅のホームに到着する。
幸いにも帰宅ラッシュの混雑から少し外れていた電車のドアが開いた瞬間に、ニゲラはホームへと駆け出した。
近代的な構造が印象的なそこは、香凛大学駅。
百年超えの歴史を持つ香凛大学――そのメインキャンパスを中心に栄えた学園都市の、玄関口だ。
沿線の喧騒から僅かに離れた、住宅地を中心とする東側の区画。
駅付近に乱立する学生向けマンションよりも建造物のグレードが上がったそこでは、ファミリー向けの高層マンションや新しめの戸建てが多く目につく。
「……ここか……?」
マップアプリで検索した地図と風景を何度も見返して、ニゲラは目の前の建物が目的地であることを再確認する。
そこは、アーモンド色を基調としたラグジュアリーな門構えが目を引く、いかにも高級そうなマンションだった。
「…………」
ニゲラは恐る恐る自動ドアを潜り、オートロックの操作盤の前に立つ。
そして、付箋に書かれた部屋番号『七〇三』を入力し、呼び出しボタンを押そうとして――ニゲラの指が止まった。
ローザに会いたい一心でここまで来たものの……恐らく、このインターホンの先に居るのは『北郷梨琥』だ。
その人物と対峙した時のことを、ニゲラは考えられていなかった。
この人、ローザとどういう関係なんだ?
俺が住所を教わって押しかけたことを知ったら、会社に悪い印象を持たれるんじゃないか?
そもそも……ローザは、本当にここに居るのか?
居たとして、会ってくれる保証も……。
「……あの、」
「っ!」
頭の中で不安をぐるぐると走らせていると、背後から声を掛けられる。
振り返ると、自分よりも少し背の低い青年がそこに立っていた。
「ごめんね。鍵、開けさせてもらっても?」
「あ、すみません……」
慌てて頭を下げ、数歩後ろに下がる。
「ありがとう」
青年はほんのり垂れ気味の目尻をさらに緩め、落ち着いた声で感謝を述べる。
そして、少し長めの柔らかな髪を風に遊ばせながら、カードキーを翳してエントランス奥の自動ドアを解錠した。
「…………」
ニゲラはその様子をぼーっと眺めつつ、ひとり静かに頭を冷やす。
……大丈夫、社長が任せてくれたんだから。
まずは正直に理由を話して、ローザの所在を――
「……芦名ニゲラくん、だよね?」
またしても思考を遮るように、エントランスに声が響く。
声の主は、今しがた鍵を開いて自動ドアの前まで歩みを進めたあの青年で。
「どうぞ」
「えっ……?」
「七〇三号室。僕に用があるんでしょう?」
名乗り遅れました、北郷です。
思いがけず先手を打たれた脳は、先ほどまでの思案も段取りも、全てをあっという間に手放してしまった。
その部屋は、ニゲラが暮らす寮の部屋とは比べ物にならないくらい広かった。
玄関から真っ直ぐ続く廊下の奥――木製のドアの向こうは、カウンターキッチンを有するダイニングキッチン。
その奥にはふたつの扉があり――洗面所らしきドアは廊下にあったから、そういった類のものとは異なるのだろう――どうやらまだ奥にも部屋があるらしい。
ダイニングの広さだけ見ても、一人暮らしの男性が使うには広すぎる空間だが……他に誰か、一緒に暮らしている人が居るのだろうか。
そんなことを考えていれば、ニゲラの前に若草色の湯呑がそっと置かれる。
「ごめんね。普段はあんまり来客がないから、あまりちゃんとしたおもてなしはできないんだけど……」
そう言いつつも、青年――北郷梨琥は、温かいお茶と個包装のクッキーをニゲラに差し出した。
湯気に乗ってふわりと立ちのぼる香ばしい匂い……色合いから見ても、麦茶かほうじ茶だろうか。
「……さて、と」
梨琥は音もなく椅子を引くと、テーブルを挟んでニゲラの向かい側に座る。
そして、自分の側に置いた湯呑の中身をゆっくり啜ってから、穏やかな声で切り出した。
「それじゃあ、ご用件を聞こうかな。と言っても、おおかたの予想はついているけれど」
ふんわりと微笑み、梨琥が会話のボールをニゲラに投げ渡す。
しかし、その優しげな垂れ目の奥――こっくりとした茶色の瞳は、ちっとも笑っていないように見えた。
「俺は、テイルプロダクション所属、芦名ニゲラです」
「うん」
「今日は……人を探しに来ました」
ニゲラは言葉を慎重に選びながら、ここに至るまでの経緯を梨琥に説明する。
その内容を静かに聞いている梨琥は、一瞬たりとも驚くような仕草を見せなかった。
「……なるほどね。それで、君は僕に話を聞きたいと」
「はい。ローザさんについて、何か……居場所の心当たりだけでも、教えてもらえませんか」
お願いします、と頭を下げる。
それからしばらくの間、空調の音が耳につくくらいの静寂が部屋を支配して――
「……教えたくない、かな」
梨琥は、微笑みを崩さずにそう告げた。
――頭を満たす靄の向こうで、声が聞こえる。
ふわふわとした意識の中で瞼を開けば、先ほどまでオレンジの陽射しが差し込んでいた窓はカーテンが閉められ、部屋はすっかり夜の暗さに満たされていた。
もそり、布団の中で体を起こし、ローザは軽く伸びをする。
ここ二日間、これまでの睡眠不足を補うかのようにずっと眠っていたからだろうか……上げた腕に引っ張られるたびに、体の節々がぴきぴきと小さな音を鳴らした。
……それよりも。
ローザは、閉じられた白いドアに顔を向ける。
ローザが知る限り、この家にはあと一人しか居ないはずなのに……厚めの木の板を隔てた向こう側では、何故かよく知った二つの響きが何かを話しているらしかった。
「……」
既に痛みの引いた足を操り、忍び足でドアに近づく。
ひんやりとしたそれにぴっとりと耳をくっつければ――くぐもっていた音は、ちゃんと言葉として耳に入ってきた。
「教えたくない、かな」
「……どうしてですか」
聞こえてきた二つの音――その低いほうの声を聞いた瞬間に、ローザの喉がヒュッと掠れた音を上げる。
……どうして?
なんで、ニィがここに……?
真っ白になった頭に、さらに言葉が流れ込む。
「だって、彼は自分からどこかに行ったんでしょう? そうしたいと思った彼の気持ちを、僕は尊重する」
「それは……」
「それに……あの人がそんな風になるまで追い詰めた君たちに、情報を提供するつもりはないよ」
「…………」
ニゲラの声が消えてしまう。
……今、どんな顔をしているんだろう。
思わず不安になるローザをよそに、声はさらに畳み掛けた。
「そもそも、君は何の権利があってあの人の行動に口出しをしているの?」
「…………」
「一緒にユニットを組むって言ったって、所詮はただの同僚じゃないか。アイドルっていう職業柄、普通の仕事のように代打を立てることは難しいかもしれないけれど……拒否している人間を無理やり仕事に連れ戻そうとするなんて、企業としておかしいとは思わない?」
それは、言い返しようのない正論だ。
正論、だけど。
「……けど、俺は……ローザの、相方だから……」
「逃げられたのに?」
「…………」
ニゲラが必死で絞り出した声も、間髪入れずに封殺されてしまう。
その切り返しには、先ほどまでよりもあからさまな攻撃性が滲んでいて……聞いているだけで胸が苦しくなった。
「君は相方って言うけど……そう思っているのは、君だけなんじゃないの?」
……やめて。
「現に、君はこうして逃げられてる。嫌われてるんじゃないか、って普通は考えるよね」
「……ちがう……」
思わず、唇から声が零れ落ちた。
俺、ニィのこと嫌いなんかじゃない。
だって、逃げ出したのは――
「どちらにせよ、あの人は君と組みたくないんじゃないかな。だから、もう解放して――」
「っ、やめてよ!」
気付けば、体が勝手に動いていて。
乱暴にドアを押し開きながら、ローザは感情のままに叫んでいた。