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風邪をひいてから
思っていたより、回復には時間がかかった。
熱が下がっても
喉の奥にひっかかるような咳だけが、しつこく残った。
少し動くだけで息が上がる。
朝、目を覚ましても、体の芯にまだ重たいものが沈んでいるような日があった。
以前なら 「大丈夫。」
そう言って、無理をしていた。
咳が出ても、だるくても、平気なふりをして、いつも通りに動こうとしていた。
でも 今は。
『今日はどう?』
「……少しだるい。」
『そっか。』
それだけ。
責められない。
呆れられない。
ただ受け止めてもらえる。
その静かなやり取りが、愁斗にはまだ少し不思議だった。
⸻
何度も病院へ通った。
朝はまだ空気が冷たくて、玄関を出ると頬にひやりとした風が当たる。
車に乗り込むと、シートの革が朝の冷えをそのまま残していて、背中に少しだけ冷たかった。
窓はうっすら曇っていて、指先でひとすじ拭くと、外の景色がぼんやりと滲んで見えた。
愁斗は眠そうに目をこすりながら、助手席に座る。
『寒くない?』
「大丈夫。」
そう答えたものの、肩をすくめたまま黙っていると、ひで がちらりと横目で見た。
『……。』
「……少し寒い。」
『最初からそう言え。』
そう言って、ひではエアコンの温度を少し上げた。
吹き出し口から出るぬるい風が、冷えた指先にじんわり触れる。
そんなやり取り。
前なら、申し訳なくて言えなかった。
でも今は
少しずつ、言葉にできるようになっていた。
⸻
病院までの道。
車のタイヤがアスファルトを踏む低い音。
信号で止まるたびに、車内に小さな静けさが落ちる。
エンジンの微かな振動が座席越しに伝わってきて、それが妙に落ち着いた。
窓 の外には、朝の光を受けた街がゆっくり流れていく。
コンビニの明るい看板。
通学途中の子どもたち。
歩道の端に残った雨上がりの水たまり。
何度も通った道。
何度も乗った車。
でも 以前とは違う。
病院へ行くことが怖いだけじゃない。
隣にいる人がいる。
行きも帰りも、ひとりじゃない。
それだけで、胸の奥のざわつきが少し和らいだ。
診察を終えた帰り道。
車内には、病院の待合室にあった消毒液の匂いがまだ少し残っていた。
窓を少し開けると、外の冷たい空気が入り込んで、こもっていた匂いをやわらげる。
愁斗はシートに深くもたれ、少し疲れた顔で言った。
『今日はどうだった?』
「まだ咳残ってるって。」
『長いな。』
「うん。」
#バディーズ
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41
にこにこ
970
『焦るなよ。』
「分かってる。」
『本当に?』
「……たぶん。」
二人で笑う。
その笑い声は大きくないのに、車内の静けさにやさしく溶けていった。
⸻
ある日。
診察が終わった帰り。
車の中で、愁斗はぽつりと言った。
「にいに」
『ん?』
ハンドルを握るひでの手は、いつも通り落ち着いていた。
信号待ちの赤い光が、フロントガラス越しに淡く映る。
「俺ね、 昔だったら。」
『うん。』
「たぶん。」
「こんなに長く治らなかったら 自分を責めてたと思う。」
ひでは黙って聞く。
ワイパーが乾いたフロントガラスを、かすかな音を立てて一度だけ動いた。
「また迷惑かけてるって。」
「また面倒な存在になってるって。」
少し間を置く。
「でも。」
愁斗は窓の外を見る。
流れていく街路樹の緑が、午後の光を受けてやわらかく揺れていた。
「今は 早く治らなきゃって思うけど。」
「一人で焦ってない。」
ひではハンドルを握りながら、少し笑った。
『それ、すごい変化だぞ。』
「そう?」
『うん。』
『前の愁斗なら、絶対言わなかった。』
愁斗も少し笑う。
その笑みは、まだ少し疲れているのに、どこかほっとした色をしていた。
「……にいにのおかげ。」
その言葉にひで は少し照れたように視線を前へ戻した。
『俺だけじゃない。』
「え?」
『愁斗が変わろうとしたから。』
車はゆっくりと進む。
窓の外では、夕方に向かう光が少しずつ傾いていた。
⸻
数 週間後。
ようやく咳も落ち着いてきた。
朝、目を覚ましたときに喉がひりつく感じが減っていた。
深く息を吸っても、胸の奥が苦しくならない。
体力も少しずつ戻ってきた。
完全ではない。
まだ長く歩くと疲れる日もある。
でも。
朝起きた時。
隣の部屋から、かすかな生活音が聞こえる。
カップを置く音。
水道をひねる音。
椅子が床をこする小さな音。
それだけで安心する。
家の中に、ちゃんと朝が始まっている。
誰かが起きている。
自分も、その中にいる。
そんな当たり前が、愁斗には何より心強かった。
⸻
ある夜。
愁斗はふと思った。
病気が治ったから幸せなのではない。
苦しい時間がなくなったから安心したのではない。
苦しい時間にも。
隣に誰かがいた。
熱でぼんやりした夜も。
咳で眠れなかった夜も。
朝になっても体が重かった日も。
ひとりで抱え込まなくてよかった。
それが。
何より大きかった。
「……。」
部屋の外から声がする。
『愁斗、寝るぞ。』
「うん。」
廊下の向こうで、ひでが電気を消す気配がした。
家の中が少しずつ静かになっていく。
『明日も無理するなよ。』
「分かってる。」
少し笑って。
「おやすみ、にいに。」
『おやすみ。』
その言葉が
当たり前になる日が来るなんて。
昔の自分は知らなかった。
病気と闘っている時間は長かった。
でも 心は。
前よりずっと軽かった。
コメント
2件
更新遅れてすみません。
読み終えたよ〜。第33話「時間」、すごく良かった。 風邪を引いてからの回復期って、焦りと戦いながらゆっくりしか進まないもんだけど、「無理しなくていい」「言えたらいいね」って雰囲気が車中の空気とか診察の帰り道の会話にじんわりにじんでて、胸がぎゅっとなった。特に「一人で焦ってない」って愁斗が認められたの、成長だよね。にいにもひでちゃんも優しすぎるし、でもお互いをちゃんとリスペクトしてる感じが好き。 長引く不調って孤独になりがちだけど、「隣に誰かがいる」だけでこんなに変わるんだなあ。読んでて温かくなった。おやすみの一言が当たり前になる日が来るっていうラスト、沁みたわ〜。 にこにこさん、本当に丁寧で優しい筆致。ありがとうございます。