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大正十一年、春。
東京のとある通りを、桜の花びらが緩やかに舞っていた。
その一枚が、白百合喫茶の窓から風に乗って入り、磨きあげられたカウンターの上に静かに落ちる。
「おはようございます。」
まだ人通りの少ない朝。かやは、挨拶と共に店の戸を開けた。
焙煎豆の香りと、まだ残る石炭の匂いが混じる店内。
彼女は腕をまくり、いつものようにストーブに火をつける。
「おや、かやちゃん、今日も早いねぇ。」
厨房の向こうから現れたのは、かやより少し年上の女給・千代。
「今日もお客さん多くなるよ〜?帝大の學生さんたち、新学期だってさ。」
髪を結い直しながら、まだ少し眠たそうなめで笑う。
「…はい。」
かやは笑ったが、その声は少し張りつめていた。
千代は帳簿を広げて、ふと手を止めた。
「ねぇ、この前の請求書、書けたかい?」
千代が何気なく尋ねる。
かやは一瞬手を止めた。
「えっと…..あの、字が…」
言いかけて、目を伏せた。
「あぁ…そうだったね。私やっとくよ。」
千代は申し訳なさそうに軽く笑って、帳簿を代わりに書きつけた。
「…でも、いつか覚えなきゃね。」
と、優しく付け加えた。
「…はい。」
かやは頷き、カップを磨きながら、店の窓越し外を見た。
通りを歩く學生の黒いバンカラマント、
女学生のリボン、新聞売りの少年、
__みんな、字が読めるのだ。
その当たり前が、どうしても遠いもののように 感じる。
どの人も、自分にはわからない
”文字の世界”で生きてるような気がした。
「かやちゃん!ぼーっとしてないで、豆!焦げるよ!」
千代の声に、かやは慌てながらストーブの火を弱める。
「すみません!」
小さな声が、窓の外の春風に紛れていった。
こうして、白百合喫茶の一日が今日も始まる。