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井川奎
87
未熟者が作った物語
247
シオン
75
2,324
大正十一年、春。
東京のとある通りを、桜の花びらが緩やかに舞っていた。
その一枚が、白百合喫茶の窓から風に乗って入り、磨きあげられたカウンターの上に静かに落ちる。
「おはようございます。」
まだ人通りの少ない朝。かやは、挨拶と共に店の戸を開けた。
焙煎豆の香りと、まだ残る石炭の匂いが混じる店内。
彼女は腕をまくり、いつものようにストーブに火をつける。
「おや、かやちゃん、今日も早いねぇ。」
厨房の向こうから現れたのは、かやより少し年上の女給・千代。
「今日もお客さん多くなるよ〜?帝大の學生さんたち、新学期だってさ。」
髪を結い直しながら、まだ少し眠たそうなめで笑う。
「…はい。」
かやは笑ったが、その声は少し張りつめていた。
千代は帳簿を広げて、ふと手を止めた。
「ねぇ、この前の請求書、書けたかい?」
千代が何気なく尋ねる。
かやは一瞬手を止めた。
「えっと…..あの、字が…」
言いかけて、目を伏せた。
「あぁ…そうだったね。私やっとくよ。」
千代は申し訳なさそうに軽く笑って、帳簿を代わりに書きつけた。
「…でも、いつか覚えなきゃね。」
と、優しく付け加えた。
「…はい。」
かやは頷き、カップを磨きながら、店の窓越し外を見た。
通りを歩く學生の黒いバンカラマント、
女学生のリボン、新聞売りの少年、
__みんな、字が読めるのだ。
その当たり前が、どうしても遠いもののように 感じる。
どの人も、自分にはわからない
”文字の世界”で生きてるような気がした。
「かやちゃん!ぼーっとしてないで、豆!焦げるよ!」
千代の声に、かやは慌てながらストーブの火を弱める。
「すみません!」
小さな声が、窓の外の春風に紛れていった。
こうして、白百合喫茶の一日が今日も始まる。
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