テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
エマ
302
椥守 蕊月
36
みーる
88
51
「……おはよ」
隣の家の重い玄関扉が開くと同時に、低い声が頭の上から降ってきた。
寝癖のついた黒髪に、少し気怠げな切れ長の目。ブレザーの第一ボタンを外したまま、ふにゃりとあくびを噛み殺している。
私の幼馴染、松宮 蒼(まつみや そう)。家が隣同士の私たちは、毎朝こうして一緒に登校するのが当たり前だった。
「蒼、また夜更かししたでしょ。ほら、ネクタイ曲がってる」
私が一歩近づいて、彼の胸元に手を伸ばしてネクタイを直してあげる。
蒼は「んー……ありがと」と、眠そうに目を細めたまま、されるがままになっている。
背が高い蒼の顔が、すぐ近くにある。ほんのり、いつもと同じシャンプーのいい匂いがした。
この時の私は、まだ小さな優越感に浸っていた。
私だけが知っている、無防備で、めんどくさがりな蒼。
だけど、学校の敷地に入った瞬間、その特権はあっけなく奪われる。
「キャー! 蒼くん、おはよう!」
「今日の髪型もかっこいいね!」
校門をくぐった瞬間、黄色い悲鳴とともに、蒼の周りにあっという間に人だかりができた。さっきまで私の目の前で眠そうにしていた男の子は、一瞬で「学校の王子様」の顔になる。
蒼は「あ、うん。おはよう」と、いつも通り面倒くさそうに、でも完璧な距離感で女子たちをあしらっていく。その人波に押し出されるようにして、私は一歩、また一歩と後ろへ下が
る。
(……近いのに、遠いなぁ)
通学路では手を伸ばせば触れる距離にいたはずなのに。学校の蒼は、私なんかじゃ手の届かない、ずっと遠い世界の住人だった。
――でも、この時の私はまだ気づいていなかった。女子たちに囲まれた蒼の視線が、人混みの隙間から、ずっと私の後ろ姿を追いかけていることに。
お昼休み。購買でパンを買った帰り道、私は渡り廊下でクラスの男子に呼び止められた。「あのさ、妃月(ひづき)って、今度の日曜とか空いてたりする?」
「え? 日曜日?」少し赤くなって頭をかく彼に、私は首を傾げる。
これって、もしかして……。
「あ、いや、もし良かったら、二人で――」
「おい」男子の言葉を遮るように、低くて冷徹な声が響いた。
びくりと肩を揺らして振り返ると、そこにはポケットに手を突っ込んだ蒼が立っていた。
「……あ、松宮」男子の顔が、一瞬で青ざめる。
蒼はいつも学校で見せる「めんどくさそうな王子様」の笑顔を一切消していた。
底冷えするような切れ長の目で、男子をじっと見下ろしている。
「悪いけど、コイツ日曜は俺の家にいるから。用があるなら俺に言え」
「え、あ、いや……なんでもない! じゃあな、妃月!」
男子は蒼のただならぬ威圧感に怯え、逃げるように走り去ってしまった。
「あ、待って……!」呼び止める私の前に、蒼が大きな体で立ちはだかる。
見上げる蒼の顔は、いつもの気怠げな幼馴染の顔に戻っていた。
「なにあれ。私、日曜日の約束なんてしてないよ?」
ちょっと怒って抗議すると、蒼はふいっと目を逸らして、めんどくさそうに髪をかき上げた。
「……嘘。お前、危機感なさすぎ。あいつ、下心丸出しだっただろ」
「え? そうかな……?」
やっぱり私って、モテないし男の子の気持ちも分かんないなぁ、とため息をつく。蒼みたくモテモテなら、そんなことすぐ分かるんだろうけど。
「はぁ……本当、鈍感」蒼は小さく呆れたような息を吐くと、私の頭にぽんと手を置いた。
少しだけ耳を赤くしていることにも、私は気づかない。
まさか、ここ数ヶ月で私に近づこうとした男子が全員、裏で蒼に「あいつに気安く触んじゃねぇよ」と冷たく脅されていたなんて、私は知る由もなかった――。
コメント
9件
第1話読了しました〜! 幼馴染の距離感と、学校に入った瞬間のギャップがめっちゃ刺さりました…「近いのに遠い」って妃月が思うところ、すごく切ない。でも最後の蒼の裏行動で「待って、それ防衛戦じゃん!」ってゾクっとしました。気怠げな顔で誰も近づけなくしてるの、尊すぎます…次が気になる! #君の知らない防衛戦 #椥守蕊月