月の境をひとつ跨いで、十二月。
世間一般が冬と認識しているであろう季節に入るも、気温的にはまだまだ冬本番とは言えず……冬用の分厚いアウターを着込んで外を出歩くには少し早い。
特に今日は一日を通して比較的暖かく、尾崎劇場の前に列をなすファンたちの服装も、秋物のワンピースから少し厚手のパーカーまで、個々人の感覚によって様々だ。
……そんな華やかな待機列を、ローザは高い位置からじっと見下ろしていた。
「……ローザ、お待たせ」
背後から、ここ一か月ですっかり聞き慣れた声に名前を呼ばれる。
振り返れば、着替えとメイクを済ませたらしいニゲラが、喫茶店の紙コップを二つ手にして隣へと向かってきていた。
「はい、ホットのストレートティー」
「あっ……ありがとう」
「歌の前は砂糖抜き、でよかったよな?」
「……大正解」
たかが一か月、されど一か月。
いつの間にか、ローザ自身が心の中で決めている飲み物のルールまで、ニゲラはお見通しだったようで……それだけ自分のことを見られていた思うと、なんだかこそばゆい気分になる。
「……入場列、見てたのか?」
「……うん」
受け取った紙コップのエンボス加工を指の腹で撫でながら、ローザは再び視線を下に戻す。
劇場をぐるりと囲うように伸びている入場列――ローザたちは、劇場ロビーの上方にある通路からその様子を見下ろしていた。
「こういうの……緊張する、かも」
「……モデルとして場数を踏んでいても、そういうものか」
「あはは、歌って踊るのは初めてだから――」
コップから伝わる熱で温まってきてはいるものの、その指先は未だに冷たい。
緊張すると指先が冷え、爪の根本が青白くなる――ローザの幼い頃からの体質だった。
「――ううん。ほんとは、ショーの前って毎回緊張してる」
「うん」
「……幻滅する?」
「しない。むしろ好感が持てる」
「……ふふっ」
外を見つめたままきっぱりと告げるニゲラの態度に、ローザは思わず笑いを零す。
ニゲラの言葉はどこまでも真っ直ぐで、無駄な飾りっ気がなくて……だからこそ、胸の冷え固まったところにすっと入り込んで、優しく解してくれた。
「……ちゃんとやれると思う?」
「やれる」
「やれるかなあ」
「だって、あんなに悩んで頑張っただろ。だから、どうなっても成功だ」
「っふふふ! 何それ~」
全く道理が通っていないその主張を聞いていると、指先がじんわりと熱を取り戻していくのを感じる。
……出会った当初は、まさかこんなにユーモアのある子だとは思わなかった。
「……ねえ、ニィ」
「ん……?」
そんなことを考えて微笑ましく感じると同時に、ローザはとある疑問を口にした。
「どうして、俺の誘いを受けてくれたの?」
出会ってすぐにぼんやりと感じていながらも、すぐに不安や焦りに押し流されてしまった、素朴な疑問。
わざわざ本番前に聞く内容か、と思う気持ちもあるが、初陣を前にした今だからこそ聞いておきたい気もした。
「それは……」
「……うん」
ニゲラの視線が、ローザへと向けられる。
いつもは降ろしている前髪がオールバックにされていることで、気怠げでありながら強い意志を宿す特徴的な瞳が真っ直ぐにローザを射抜いた。
数秒……いや、数十秒の沈黙。
その静けさのあとに放たれた単語は、少し緊迫したこの雰囲気には似合わないものだった。
「……いちごミルク」
「えっ?」
「さ、最初に会ったとき……買ってくれただろ」
「……ああ!」
最初に会った日、ニゲラを追いかけて向かった休憩所。
ローザの登場に気まずそうにしていたニゲラの気を紛らわせるため、押されていなかった自動販売機のボタンを代わりに押したことを思い出す。
「俺……誰かが飲み物を買ってきてくれた時、いつもコーヒー渡されるんだ」
「……そうなの?」
確かに、普段はクールで表情の変わらない彼のことだ。
周囲は彼を「大人っぽい」と思うだろうし、先入観からそういうこともあるのだろう。
……実際に彼がコーヒーを飲むときは、決まって甘いカフェオレにするのだけれど。
「だけど、ローザは何も言わずにいちごミルクを選んでくれただろ。普通のことみたいにそうしてくれたのが、嬉しくて」
「……そう、だったんだ」
それは、ローザにとっては当然のことだったのだ。
彼がそれを選んだのを見た、だからそれを選んだ。
先入観とか、こうあるべきとか、その言葉の息苦しさは身をもって知っている。
だから……あの時、自分のそれがニゲラの何かを救えていたのだとしたら、それは――
「ああ……そうだったんだよ」
ニゲラはふにゃっと眉を緩めながら、ローザと自分の二の腕をそっと添わせた。
衣装越しに触れる腕は、ローザのそれよりしっかりしていて。
手のひらの中の紅茶よりもずっと温度が低いはずなのに、触れた体温から分け与えられた熱のほうがずっと素早く全身に巡って、じわじわと末端までを温めていく。
「違いに苦しんで、拒絶の痛みを知って……その上で、相手のために『踏み込む』とか『寄り添う』を選べるのは、強くて優しいってことだと思う」
「…………ニィ……」
「そういうローザはすごいし、綺麗だし……格好いいよ」
じわ、と瞼の奥からこみ上げてくるものを、ぐっと堪える。
その言葉は、今まで歩んできた道も、今のローザが選ぶものも……そして、ローザがローザとして生きることすら、全てを優しく肯定してくれているようで。
何よりも温かくて、嬉しかった。
「だから、その……そういうところ全部に惹かれてローザの手を取ったし、取ってよかったって、思う」
次第に頬を赤らめて伏し目がちになっていくニゲラだが、寄り添った腕は離れない。
小さな生き物同士が身を寄せ合って暖を取るような距離感が、気温を無視して襲い来る緊張感を凌ぐには心地よくて……しなやかながら頼り甲斐のあるその腕に、ローザはほんの僅かに体重を預けた。
「……収録終わったらさ、ごはん行こうね」
「ああ」
「何がいい?」
「……肉」
「っふふふ! 俺は揚げ物とか食べたいかな~」
「じゃあトンカツだ」
そんな他愛ないやり取りをしているうちに、眼下の列が動き始める。
スタッフに先導されながら劇場の入り口に誘導され、大きなガラス扉の前に人が集い――そろそろ、開場だ。
「ローザ、行こう」
すっと、目の前に手を差し出される。
まるでエスコートするかのようなその仕草に、ちょっとキザだなあなんて微笑んで。
「……お願いします、俺の相方さま」
そっと手のひらを重ねて、ローザは花が綻ぶように微笑んだ。
その日の夜、SNSのトピック欄にはローザとニゲラを表す言葉がずらりと並び。
ランウェイの妖精と名もなき少年は、たったの一夜にして大輪の花へと変貌したのだった。
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