その後、甘露寺さんは別任務に行ってしまい、銀子とともにあの村の帰路へとついた。
鬼はどこにいるのだろう。
やはり村の住民に無理やりにでも聞き出すしかないのだろうか。
どっちにしろ○○たちはどうして教えてくれないのだろう。
歩みを進めるたびに苦悩が嵐のように襲ってきて、思考のループから一向に抜け出せない。
『おかえりなさい。』
どうしたものか。と考えに浸かっていると、どこかあどけないものを残している軽く柔らかな声音が僕を出迎える。無意識のうちに枯れているイチョウの葉を踏んでしまったのか、行く前にも聞いたくしゃりとした乾いた音が僕の鼓膜に触れた。
その音に顔を上げると、あの少女が微笑みを浮かべてこちらに手を振っているのが見えた。
─…名前は、なんだっけ。
記憶の継続が難しい僕にとって、もう随分と馴染みの染みついたその質問が頭に浮かび上がった。思い悩むように頭を傾げる。
「…だれだっけ」
『…○○ですよ、○○。』
やれやれとでも言う風に力なく笑いまどろっこしいほど丁寧な口調で教えてもらった言葉に、記憶の奥底に埋もれていた名前が蘇る。
「○○…」
忘れないよう刻み込むようにその名前を繰り返し言う。
その途端、残っていたパズルの一ピースがはまったような、一陣の風がすっと通り抜けたすっきり感を感じた。少しだけ思考に覆いかぶさっていた霞が晴れたような気がした。
このまま鬼のことについて報告しようと○○の顔をもう一度しっかりと見つめた瞬間、彼女の顔に刻まれた違和感に気づいた。
「…それ、どうしたの?」
○○の右側の頬──ちょうど鼻の真横辺りを指差す。
そこには大きな白い湿布がやや雑気味に貼られている。よく見れば違和感は頬に貼られた湿布だけではなく、疲れたような血の気のない顔色をしていた。目の焦点はどこにも結ばれておらず、ろくに睡眠をとっていないのか下瞼の皮膚には微かに紫色を帯びていた。
『えっ…?』
僕の問いかけに、それまでぼんやりと焦点を失ったような眼差しで空虚を眺めていた○○が慌てたように青い瞳の視線を泳がせ、自身の頬を片手で抑えた。目の光の揺れがで動揺に耐えていることが分かる。
『あ、えっと…痒くてつい引っ掻いちゃったの。』
「虫に刺されちゃったのかしら。」と力の見えないぐったりとした声で見え透いた嘘を吐く○○の姿に顔に浮かべた怪訝が強まる。
こんな季節に虫なんて出るわけがないでしょ。そう抗議しようと言葉を添えた瞬間、明らかに動揺しているであろう○○の口調に言葉を重ねられた。
『そんなことより無一郎くんだけなの?蜜璃さんは?』
辺りをキョロキョロと落ち着きなく見渡し、○○がそう問いかけてくる 。
「…今日は丸一日別の任務。」
そう話を切り替えられてしまえば、問いかけたかった言葉はすぐに忘れてしまい、頭の奥に濃い霞を残したまま素直に○○の言葉に答える。
『あら、そうなの…』
寂しそうに視線を落とし、沈んだ声色で言葉を落とした○○だったが、何かを思い出したかのように一瞬の間の内に顔を上げた。
『で?貴方たちの言う鬼は居たのかしら?』
親しみのない、警戒心を深く込めた青い瞳が僕の瞳を刺す。その視線には、微かに揶揄するような色合いが混じっており、答えなんて聞く前から分かっているような様子だった。
「…いや、居なかった。」
素直にそう頭を振り、言葉を落とす。
その瞬間、○○の口の両端が引きつるようにまくれ上がった。
『言ったでしょう?鬼なんて居ないって』
カツカツと高下駄で地面を打つ軽い足音とともに、○○が僕の傍に近づいてくる。
そして、片手を僕の肩に置き、もう片手の細い指でこの村の出口を指差す。視界の端で○○の着物の袖がはらりと揺れた。
『分かったのならもう帰りなさ…』
「帰らないよ。最低あと1ヶ月は居るつもりだから。」
○○の言葉に被せて、舌の上を滑るように速く言葉を吐く。
自身の肩に乗った○○の手を払いのけ、出口を指差された腕を掴む。
「僕らがここに居てはいけない理由はないんでしょ?」
僕がそう言葉を落とした瞬間、大きな瞳を上瞼に寄せて、ジッとこちらを見上げてくる○○の瞳に微量の呆れの色が混じった気がした。白い頬に苦い笑みが刻まれる。
『…図々しいわね』
「なんとでも言えば」
○○の腕を掴んでいた手を放す。その瞬間、手から段々と消えていく○○のほんのりとした体温を残念だと思ってしまう自分に、何度目かの困惑を感じる。
『わたくし、神の許嫁ですわよ。もっと丁寧に扱ってほしいわ。』
僕に掴まれた棒のように細い白い自身の腕を軽く摩りながら○○はわざと気に声を震わす。
「君みたいに演技が下手くそな人が嫁だなんて、神様も可哀想だね」
嫌味をたっぷりと溜め込んだ言葉を吐く。
その瞬間も、自身や○○が告げた“嫁”という言葉が胸を締め付けて一生消え無さそうな濃い跡をつけた。疲労が溜まってヒリヒリと痛んでいた胃に、またもや違う重みが圧し掛かって来る。そんな憂鬱で絶望的な気分が苦痛の溜まった胃の底から頭まで広がった。体を焼き尽くすような痛みに無意識に段々と顔が歪んでいく。
そんな顔を○○に見られたくなくて、長い髪をわざと顔に垂らすように傾け、表情を隠す。
─…○○と会ってからずっとこうだ。
彼女がすぐ傍に近づいてきたり体に触れたりすると心臓が痛いくらいに跳ねて、逆にその“神様”とやらの話をするたびに憂鬱な色が心を満たす。
どうして○○と喋るたびに、こんなにも苦しい思いをしなければいけないのだろう。
この胸の住み着く重苦しい感情を吐き捨てようと濃いため息を落とした瞬間、重ねるように誰かの気の抜けたような小さな欠伸が耳に入り込んで来た。
『蜜璃さんが来るまで寝ておこうかしら。』
眠たそうに隈の刻まれた目を擦りながらそう言葉を落とす○○の姿に、そういえば僕も寝られていなかったな。とぼんやり思い出す。
そう自覚した瞬間、薄っすらと眠気が自身の身体によぎった。唐突に、眠りたいと弱気な気分になる。いきなり瞼が乾いた石のように感じられ、睡眠不足で朦朧としている頭は酷く重く、時折コクッと倒れそうになった。
『無一郎君も眠いの?』
そこまで言い、「そういえば一晩中捜査していたものね」と、○○は眉を八の字を下げ、睡魔の籠った瞳で僕を捉える。と、その瞬間、何かを思いついたように○○の青い瞳からいたずらそうな細い笑いが沸き上がってきた。
『…一緒に添い寝します?』
「しない」
『まぁ即答』
何がおかしいのか、○○は自身の着物の長い袖で寝不足のせいか普段より少し血の気の薄い唇を隠し、クスクスと込み上げる小さな笑いを押しつぶしている。
そんな○○の姿を横目に、嫁入りが決まっている年頃の娘が同年代の男に一緒に寝ようだなんて。と、あまりの馬鹿馬鹿しさに頭を抱えたくなる。どうしてこの娘はこうも掴みどころのない行動ばかりするのだろうか。
『冗談よ』
『無一郎くんの部屋を案内しますわ。ついてきて。』
まだ頬にほんの少し笑いの余韻を残した○○がそう言い、村の方へと歩いていく。
その瞬間、必然的に目に入った小さな背中一杯に溢れるほど広がる黒髪の艶やかさについ視線が釘付けになる。
笑顔が下手くそで
時々苛立つことをしてきて
何か隠しことをしていて
大嫌いな彼女を思う気持ちが少しだけ変わったような、そんな気がした。
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無一郎は一目惚れか