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莉久⚁⚄[低浮上]
33
#ご本人様には関係❌
第2話 名前で呼んでくれ
「……それはこっちの台詞だ」
熊の視線が、龍清の左上腕へ向けられている。
龍清は反射的に腕を背へ回しかけた。
それで隠せる相手ではないと思い直し、途中でやめる。
「いや、ちょっと待て。その顔はやめろ。大した傷じゃない」
「見せろ」
「医療官にも診てもらった。香脈の表層を少し傷めただけで、もう処置も済んでる」
「見せろ」
「話を聞いてたか、熊さんよ」
「聞いた。見せろ」
取りつく島もない。
龍清は数秒ほど熊の顔を見つめたが、先に諦めて息を吐いた。
「は、はは……鼻が利く男に誤魔化しは通じないか。分かった、分かったから、そんな怖い顔するなよ」
「誤魔化したのか」
「言葉の綾だ。隠すつもりはなかった」
「なら見せろ」
「結局そこへ戻るのな」
熊は返事をせず、任務装具を外し始めた。
肩当てを置き、手甲と手袋を外す。流し台で手を洗うと、迷うことなく棚を開け、龍清の処置具を取り出した。
自室の主よりも、置き場所をよく把握している。
「そこまでしなくても、自分で――」
「腕を出せ」
「……はいはい」
龍清は衣の袖を捲った。
熊が処置布へ顔を寄せる。
医療官が施した部分は、きちんと傷へ密着していた。だが、その上から龍清が巻き直した箇所だけが緩み、端が浮いている。
そこから微かな香が漏れていた。
熊の眉間に皺が寄る。
「……相変わらず、自分のことは雑だ」
「相変わらずは余計だろ。一応、巻けてるじゃないか」
「塞いだだけだ」
「塞がってれば充分だろ」
「充分なら香は漏れない」
「正論で殴るなよ」
熊は龍清の言葉に構わず、緩んだ処置布を解き始めた。
「ちょ、おい。全部外すのか?」
「やり直す」
「お前の方が任務帰りで疲れてるだろ。俺の腕一本に構ってないで、先に休めって」
「動くな」
「人の話を――」
「龍清」
名前を呼ばれ、龍清は口を閉じた。
熊の大きな手が傷の状態を確かめる。
指先の動きに迷いはない。処置具の扱いにも慣れている。戦闘任務に就くようになってから、応急処置を使う機会も増えたのだろう。
かつては、人型の手で処置具を扱うことすら知らなかった。
それどころか、触れたいという欲求をどう伝えればいいのかも分からず、龍清の腕を掴んで寝台へ引き倒した男だった。
その手が今は、傷を痛めない力加減で処置布を巻いている。
「何があった」
手を動かしながら、熊が尋ねた。
「……訓練中、器具が倒れた。音と影に反応して、肉食獣由来の男の防衛反応が出たんだ」
「自分で止まったのか」
「ああ。俺の声を聞いて、爪も収めた。自分から距離も取れたよ」
「そうか」
「事故は事故だが、あいつ自身は一つ進めた。そこはちゃんと記録してある」
熊はしばらく黙っていた。
傷を塞ぐ薬剤を薄く塗り、新しい処置布を重ねていく。
「悪意がなかったことは分かる」
龍清が熊を見る。
「身体が先に動くことは、俺も知っている」
「ああ」
「止まれたなら、その男は次も止まれるようになる」
「俺もそう思う」
熊の手が一度止まった。
「だが、お前が傷つくのは嫌だ」
龍清は瞬いた。
いつもそうだ。
この男は、こういうことだけは妙に真っ直ぐ言う。
「……はは」
思わず乾いた笑いが漏れた。
「お前は相変わらず、その手の台詞だけ真顔で言うな。困った熊さんだなぁ」
「何が困る」
「そうやって聞き返してくるところまで含めてだよ」
「嫌なのか」
「嫌じゃないから困ってるんだろ」
そこまで言ってから、龍清は自分の言葉に気づいた。
熊が顔を上げる。
「……今のは忘れろ」
「嫌だ」
「即答するなよ」
熊の口元が、ごくわずかに緩んだ。
龍清は誤魔化すように、その手元へ視線を落とす。
「でも、本当に変わったよな」
「何がだ」
「昔は逆だった」
「逆?」
「俺がお前を止めてた」
熊の手が止まる。
龍清は面白くなり、口元を緩めた。
「俺の腕を掴んで、寝台へ引き倒して。そのまま首まで舐めた熊さんをな」
「……一回で止めた」
「二回目も行こうとしただろ」
「止まった」
「俺が一回って言ったからな」
「聞いたから止まった」
「分かってるよ。だから許可したんだろ」
熊は再び処置布を巻き始めた。
耳こそ獣型の頃のように残ってはいないが、目を合わせなくなったところを見ると、照れているらしい。
龍清はそれを見逃さなかった。
「そういや、あの頃から俺の香ばかり気にしてたな」
熊は答えない。
「あの時も言ってただろ。俺の香がどうとか」
「……言っていない」
「言った。俺の香が何だったんだ?」
処置布の端が、きっちりと留められる。
「手当ては終わった」
「話を終わらせるな」
「終わった」
「都合が悪くなると、それを使うようになったな」
「必要な処置は終わった」
「俺の真似までしなくていいんだぞ、熊さん」
熊は黙って処置具を片づけ始めた。
龍清は笑いながら、新しく巻かれた処置布へ触れる。締めすぎず、緩すぎず、腕を動かしてもずれない。
「ありがとな」
「ああ」
短い返事だった。
それ以上、香の話へ戻るつもりはないらしい。
*
龍清は夕食の準備へ戻った。
「戦闘任務で疲れてるだろ。飯食ったら、今日は早く休めよ」
「ああ」
「風呂も使っていいからな。装具の汚れ、こっちへ落とすなよ」
「分かった」
熊は残っていた装具を外し、壁際へまとめていく。
龍清がまな板の前へ立ち、包丁を手に取った時だった。
背後に気配が近づく。
次の瞬間、大きな腕が龍清の腰へ回された。
傷のある左腕を圧迫しないよう、位置だけは正確に避けている。
龍清の肩が跳ねた。
「ちょ、おい。待て待て、熊さん」
持っていた包丁を慌ててまな板へ置く。
「俺、今から料理するところなんだけど?」
「疲れた」
「それは見れば分かる。だから休めって言ってるだろ」
「疲れたから、お前に会いに来たんだろ」
「…………」
言葉が詰まった。
龍清は何か返そうと口を開き、結局、一度閉じる。
「……はは。そういうことを真顔で言うなよ」
誤魔化すように笑ってみても、腰へ回された腕はなくならない。
「まったく、困った熊さんだなぁ、お前は」
「嫌か」
「嫌なら、とっくに退けって言ってる」
熊の腕へ自分の手を重ねる。
触れられること自体が嫌なわけではない。
ただ、このままでは料理にならない。
「でも、火も刃物もあるんだぞ。危ないなぁ、熊さん」
その言葉を聞いた瞬間、熊の腕が緩んだ。
迷いはなかった。
龍清の身体から腕を外し、一歩分の距離を取る。
昔なら、欲しいという感覚に身体を引かれ、離れるまでに時間がかかっていた。
今は龍清が危ないと言えば、それだけで離れられる。
「……本当に素直になったな」
龍清が振り返る。
熊は何も答えず、龍清を見ていた。
「何だよ」
「名前で呼んでくれ」
「……は?」
「俺を、名前で呼んでくれ」
「いや、ちょっと待て。今この流れで言うのか、熊さんよ」
「それだ」
「何が」
「熊さん」
龍清は目を瞬いた。
「熊さんでいいだろ。昔からそう呼んでる」
「嫌ではない」
「ならいいじゃないか」
「だが、それは俺が利用者だった頃の呼び方だ」
龍清の表情から、わずかに笑みが消えた。
熊はもう一度、一歩だけ近づいた。
今度は触れない。
龍清の返事を待てる位置で止まる。
「あの日、お前がくれた名前がある」
その言葉に、龍清の視線が揺れた。
脳裏に、古い記録板が浮かぶ。
卒業確認の書類。
すべての項目が埋められた中で、一つだけ空白のまま残っていた名前欄。
そして、半年前の約束を一日も忘れず、その前に立っていた大柄な男。
それは、この男を最後に「利用者」として見送った、卒業の日だった。
コメント
1件
ああ、もう、この回は胸がぎゅっとなりました……!熊さんの手当ての仕方、一つひとつが丁寧で、昔は龍清の腕を掴んで引き倒してた男とは思えない変化にじーんと来ました。そして「嫌じゃないから困ってる」って龍清の台詞、すごく彼らしい。最後の「名前で呼んでくれ」に繋がる、あの卒業の日の記憶の出し方も絶妙でした。熊さんが「利用者だった頃の呼び方だ」って言うところ、龍清の表情が一瞬消えるところ、全部好きです。