テラーノベル
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ここは「Agreement」――ウイスキー専門のBAR。金沢市香林坊の急な坂道を下り、左に折れると三叉路が見えてくる。
その細い道を右に進むと街灯が一本、角を曲がると石畳の小径がその店へと続いていた。
足元を照らすライトを三、四、五個数えながら、ユーカリの樹が揺れる煉瓦の外壁に辿り着く。
マホガニーの重厚な扉、ドアノブは真鍮。
鈍い音を立てて扉を押すと、寂しげな曲を奏でる蓄音機が針を飛ばした。
間口は狭く、艶やかなダークチェリーのカウンターには椅子が八脚。
二人の後ろ姿は、そこにあった。
「黒木、おまえどうするんだ」
「どうする、何がだよ」
「あいつが戻って来るんだろ」
「あいつ、奈良か」
「そうだよ」
グラスの中で氷が乾いた音を立てる。
「上が決めた事だし。デカい失敗をしなきゃそれで良いよ」
「なに恍けた事言ってるんだよ」
「は?」
「仕事の話じゃねぇよ。満島瑠璃の事だよ。奈良と満島が付き合ってた事はおまえも知ってるんだろ」
黒木の隣に座る男、堺が向き直った。
堺は黒木の同期であり総務部の係長だ。
堺は思い詰めた表情の黒木を、この店に誘った。九月一日午後、ついに奈良の辞令が公布された。
「奈良がここに(金沢支店)戻って来る」
PDFファイルを開いた営業部署内の面々は驚きを隠せなかった。
瑠璃も戸惑いの表情を見せた。
「知ってる」
「満島が奈良にベタ惚れだったんだろ、心配じゃないのかよ」
「どんな心配だよ」
黒木はピスタチオの殻を剥き続け、小皿には砕けた殻が山積みになっていた。
堺が空になったグラスをバーテンダーに手渡す。
トプトプトプと注がれる琥珀色、芳醇な香りに氷が沈んでゆく。
「元サヤに戻ったらどうすんだ」
「大丈夫だよ」
「その自信は何処から来るのかね、羨ましいよ」
「自信なんかねぇよ」
「は?」
「不安しかねぇ」
「大丈夫なんだろ?」
「満島を信じるしかない」
「なんか微妙だな」
「……」
「こればっかりはどうしようもねぇよ」
堺は猫背になった黒木の背中を「しっかりしろよ」と軽く叩いた。
黒木はそれからもピスタチオの殻を剥き続けた。
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