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日下部が席を立ったあと、蓮司は教壇の端に腰掛け、ゆるく足を組んだ。遥は椅子に座ったまま、まっすぐに黒板を見ていた。
だが、その視線はどこにも届いていなかった。
「──“ねえ、日下部”って、言ってたな。昔の玲央菜」
蓮司が唐突にそう口にした。
遥のまぶたがぴくりと揺れた。
「声だけは、やけに甘くてさ。
でもそのあとの“じゃま、どいてよ”の方が、本音なんだよな。わかりやすい女だよ、あれ」
遥は返事をしない。だが確かに、首のあたりの血の気が引いていく。
蓮司は視線を遥に向けず、ただ愉快そうに笑う。
「さっき、俺が言っただろ? “おまえのせいで、あいつ、自分のこと加害者だと思ってる”って」
「──で、図星だった?」
遥はその瞬間、喉の奥で何かがせり上がるような感覚を覚えた。
「……俺が、壊したんだ」
ぽつりと、声がこぼれた。
蓮司の口元がにやりと歪む。
「誰を?」
「日下部を」
黒板に向いたままの瞳が、焦点を持たないまま呟く。
「日下部は……俺のせいで、俺を守ろうとして、巻き込まれて、また俺のせいで壊れる」
「……“守らせた”のは、俺だ」
蓮司は足を組み直し、ようやく遥を見た。
その顔は無表情だった。感情が抜け落ちたように見えるのに、目だけがどこか赤い。
「なにそれ。まさか、“今度は自分が加害者”とか思ってる?」
遥は答えなかった。だが、それが答えだった。
蓮司は吹き出した。
「やっば。マジで思ってるんだ」
「おまえ、歪んでんなぁ」
「日下部のこと、助けたくて身体差し出して──
それで結局、何も守れなくて、“自分が壊した”って、思ってんだ」
「──最高じゃん、それ」
遥の頬が微かに熱を持つ。けれどそれは怒りではなく、恥辱でもない。
“自分の痛みにすら興奮してしまう”ことへの、混乱と嫌悪だった。
「ねえ、遥」
蓮司は、椅子から降りて遥の前にしゃがみ込んだ。
「泣いていいよ? 怒ってもいいし、俺を殴ってもいい」
「でも……そのどれもしないんでしょ?」
「“自分が悪いから”って、また黙るつもり?」
遥の唇が震えた。その顔に、初めて“歪み”が出る。
──泣きそうなのに、笑っている。
──怒っているのに、口を噤む。
蓮司はそれを見て、愉快そうに息を吐いた。
「……うん。やっと、面白くなってきた」
「ねえ、遥。おまえって、“誰かを壊すことでしか、自分の存在を感じられない”んじゃね?」
遥は答えない。
ただその言葉が胸に突き刺さり、引き抜かれずに残った。
──自分が生きているってことを、誰かの痛みでしか感じられない。
それが、いちばん浅ましい加害だと、誰より遥自身が知っている。
蓮司は立ち上がる。
「次の夜、楽しみにしてる」
「きっともっと、壊れてくれるよな? おまえ自身の手で」
笑って教室を出ていった蓮司の背中に、遥は何も返せなかった。
ただ一点を見つめたまま、喉の奥で、小さく嗤った。