テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
ムギの声は、門の奥の庭のほうから聞こえていた。
吠えては止み、また吠える。鎖が張りつめて鳴る音がする。
私は門柱に手をつき、目を閉じた。
膝が、まだ震えていた。ここまで乗ってきた車のせいだ。
*
駅のロータリーで待っていたのは、黒いセダンだった。
運転席から降りてきた男を見た瞬間、私は息を止めた。
角刈り。肩幅の広い黒いスーツ。
堂島賢治。御影の家の運転手だ。
「佐伯さん? 御影の家の者です。どうぞ」
男は後部座席のドアを開けた。
近づくと、ハッカ飴の匂いがした。この人はいつも、何かを噛んでいる。
ドアの縁にかかった男の指は、太かった。
爪の間に、黒い機械油が入りこんで、落ちきらずに残っている。
あの車に触った指だ。
ガレージで、私の車の下に潜りこんで、ブレーキに何かをした指。
「どうしました?」
「……いえ。失礼します」
後部座席に座ると、膝の上で握った手袋の手が、自分のものではないように冷たかった。
車は駅前の商店街を抜け、坂にさしかかった。
七曲り坂。七つ目のカーブ。六つ目のカーブ。
「家政婦さん、あの事故の車に乗ってたんでしたっけ」
バックミラーの中で、堂島の目がこちらを見ていた。
奥歯で、ハッカ飴を噛み砕く音がした。
「……はい」
「そりゃあ、災難でしたね。何か覚えてます?」
「何も」
「へえ。何も」
車は、ゆっくりと坂を上っていった。
五つ目のカーブで、堂島はほんの少し速度を落とした。
ガードレールの切れ目は、新しい白いガードレールでふさがれていた。その足元に、色の抜けた花束が一つ、雨ざらしになっていた。
「ここですよ。前の奥さんが落ちたのは」
私は窓の外を見なかった。
見なくても、覚えていた。ライトの中に白く浮かんだ切れ目も、ひっくり返る世界も、炎の熱も。
「この坂、ブレーキ踏みっぱなしだと危ねえんですよ。家政婦さんも、歩くときは気をつけな」
ミラーの中の目が、笑っていた。
私は膝の上の手を、もう片方の手で押さえつけた。
坂の上のほう、二つ目のカーブの街灯の下に、もちろん誰も立っていなかった。
*
門が開いた。
玄関までの石畳の両側で、ツツジが咲き始めていた。私が三年前に植え替えた株だ。
庭の奥の犬小屋のほうで、赤い影が鎖をいっぱいに引っ張っている。
ムギ。
赤いバンダナが、まだ首に巻いてある。
私は目をそらした。
短く二回、長く一回の口笛。左手を下へ二度。それだけで、あの子は伏せる。けれど、それはもう燃やした紙に書いたことだった。
「あの犬、うるさいでしょ」
玄関の扉が開き、甘いローズの香りが流れ出てきた。
「前の奥さんの犬なの。私にはずっと唸るのよ。……いらっしゃい、佐伯さん」
花園麗奈が、そこに立っていた。
淡いラベンダー色のワンピース。栗色の巻き髪に、大ぶりのパールのピアス。
私の家の玄関で、私の家のスリッパを履いて。
「はじめまして。佐伯凛と申します」
病室で何百回も練習した言葉が、するりと出た。
「どうぞ上がって。あ、それから、うちでは私のことは『奥様』って呼んでね。主人は『旦那様』。お義母さまは『大奥様』」
「かしこまりました、奥様」
麗奈は満足そうに笑った。
涙袋を強調した目が、きゅっと細くなった。
*
応接間は、様変わりしていた。
私が選んだ生成りのカーテンは、淡いピンクのレースに替えられていた。
ソファの上には、パステルカラーのクッションがいくつも並んでいる。お義父さまの遺した油絵は外され、代わりに大きな結婚式の写真が飾られていた。
その部屋に、三人がいた。
ソファの真ん中に、麗奈が座った。
窓際の一人掛けの椅子に、ネイビーのジャケットの蒼真。
そして、正面の椅子に、色無地の着物を着た女の人。
御影貴和子。
白髪まじりの夜会巻き。銀縁の老眼鏡を鎖で首から下げ、膝の上で白檀の扇子を握っている。背筋は、相変わらず定規を当てたようにまっすぐだった。
お義母さま。
心の中でそう呼んでから、私は深く頭を下げた。
「大奥様。その節は、大変お世話になりました」
お義母さまは、すぐには答えなかった。
老眼鏡をかけ、私の顔を、上から下まで、ゆっくりと見た。
この人は、本物の凛さんに会っている。
事故の日、この部屋で。
「……顔が違うわね」
部屋の空気が、止まった。
「十一月にお会いしたあなたは、もっと丸い顔をしていたわ。声も、そんなふうではなかった」
私はバッグから封筒を出し、両手で差し出した。
「事故の火で、顔と喉を焼きました。皮膚を移植して、作り直していただいております。声も、喉の火傷で変わりました」
封筒の中は、東雲が書いてくれた診断書だった。
聖和医科大学病院、形成外科。佐伯凛、顔面および頸部熱傷、皮膚移植による再建術後。
お義母さまは、診断書を長いこと読んでいた。
老眼鏡の奥の目が、紙と私の顔を、何度も往復した。
医者の書いた紙が、私の盾になる。
東雲の声を、私は心の中でなぞった。
「……そう」
お義母さまは診断書を封筒に戻し、蒼真に渡した。
蒼真はそれに目を通し、少し眉を寄せた。
「大変でしたね。あの事故で、一人だけ」
一人だけ。
凛さんは、あなたの妻として死んだのに。
*
「ねえ、ちょっと試してもいい?」
麗奈が、自分のティーカップを持ち上げた。
そして、手を滑らせた。
紅茶が、白いリネンのクッションに広がった。
茶色い染みが、みるみる輪になっていく。
「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃった」
麗奈は少しも慌てていなかった。
長いネイルの指で、クッションをこちらへ押しやる。
「これ、イタリアから取り寄せたの。家政婦さんなら、拭いてみて。跡が残ったら、お給料から引いてもいいわよね?」
蒼真が、困ったように笑った。止めはしなかった。
私はクッションを受け取った。
リネン。紅茶。いまこぼしたばかり。
「炭酸水と、お塩を少しお借りできますか。それから、乾いた白いタオルを二枚」
立ち上がりかけて、私は足を止めた。
体が、勝手に廊下の奥の厨房へ向かおうとしていた。
「……厨房は、どちらでしょうか」
「突き当たりを右。食堂の奥よ」
麗奈が顎で示した。
私は頭を下げ、教えられたとおりに、知っている廊下を歩いた。
厨房の冷蔵庫の扉の内側に、炭酸水の瓶がある。私が入れていた場所に、まだ同じように並んでいた。
配膳リフトの扉が、壁の中で黙って閉じていた。
応接間に戻り、染みの裏側にタオルを当てる。
表から炭酸水を少しずつ含ませ、こすらずに、上から叩く。泡が紅茶を浮かせたところで、乾いたタオルに吸わせる。残った輪には塩を薄くのせて、水気を吸い上げさせる。
五分もかからなかった。
白いリネンに、跡は一つも残らなかった。
麗奈の笑顔が、少しだけ固まった。
「……へえ。やるじゃない」
「旅館では、お客様のお召し物を汚してしまったときに、すぐ処置するよう教わりました」
嘘ではなかった。
凛さんのレシピの便箋の隅に、染み抜きのメモも書いてあった。私は、それを読んでいた。
蒼真が、窓際の椅子で脚を組み替えた。
「ところで、佐伯さん」
軽い口調だった。
天気の話でもするような。
「記憶は、戻りましたか」
麗奈が、ティーカップを置く音がした。
お義母さまの扇子が、膝の上で止まった。
「いいえ、旦那様」
私は、蒼真の目を見て答えた。
「あの日、坂を下りたことまでは覚えております。そこから先は、病院で目が覚めるまで、何も」
旦那様、と口では呼んだ。
心の中では、別の名前を呼んでいた。
蒼真。
あなたが私を殺そうとしたことなら、一秒残らず覚えている。
蒼真は、えくぼを浮かべて笑った。
「そうですか。……無理に思い出さなくていいですよ」
*
ぱちり、と乾いた音がした。
お義母さまが、白檀の扇子を閉じた音だった。
「採用よ」
麗奈が「お義母さま、私が選ぶって」と言いかけたが、お義母さまは見もしなかった。
「十一月に、私が約束したことです。御影の家は、一度した約束を引っこめたりしないわ」
それから、老眼鏡を外して、私を見た。
「部屋は半地下の北の部屋。……前の嫁が、よくアイロンをかけていた部屋よ」
コメント
1件
第8話「面接」、めちゃくちゃドキドキしながら読んだよ…!!😭💕 まず冒頭から、堂島の指の「黒い機械油」で一気にサスペンスモード突入!あの車に触った指って思うだけで背筋がゾッとした…。そして麗奈の紅茶こぼし試練、まさかの染み抜きスキルで華麗に返すところがカッコよすぎて叫んだ😳✨「旦那様」って呼びながら「心の中では別の名前」ってとこ、凛さんの覚悟がひしひし伝わって震えた…! 最終回じゃなくて続きが気になる終わり方だったから、次話がすごく待ち遠しいです…!📖🔥