テラーノベル
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夜は深いのに、眠気が来ない。
いるまはリビングのソファに座ったまま、テレビもつけずにぼんやりしていた。
冷蔵庫のモーター音。
時計の針の音。
それだけの、静かな部屋。
らんはもう寝ている。
さっきまで少し不安定だったけど、呼吸は落ち着いていた。
(よかった)
そう思ったのに。
胸の奥が、ざわつく。
きっかけは、あの音。
夕方、鍋を落とした音。
ガンッ
あの瞬間、驚いたのはらんだけじゃなかった。
自分の手も、ほんの一瞬だけ震えたのを、いるまは覚えている。
(俺まで、何ビビってんだよ)
苦笑しようとして、できない。
目を閉じると、別の景色が浮かぶ。
昔の部屋。
狭くて、空気が重くて、
“いつ音がするか分からない場所”。
足音が近づくたび、息を止めていた時間。
「静かにしろ」
低い声。
言葉の内容より、圧の方が記憶に残ってる。
いるまは拳をぎゅっと握る。
(もう終わってる)
何回も思った言葉。
でも体は、完全には信じていない。
自分より小さならんを、無意識にかばう癖。
物音にすぐ反応する耳。
全部、あの頃の名残だ。
廊下の向こう、らんの部屋のドア。
静かだ。
泣き声は聞こえない。
それでも、いるまは立ち上がる。
足音を立てないように歩くのは、昔からの癖。
ドアの前で、立ち止まる。
中からは、穏やかな寝息。
その音を聞いて、胸の奥のざわつきが少しほどける。
(大丈夫だ)
あいつは今、あの場所にいない。
ここにいる。
でも。
らんを見ていると、時々思う。
(似てる)
怖い時に声が出なくなるところ。
大丈夫って言うのに目が笑ってないところ。
昔の自分と、少し重なる。
それが嫌で。
それ以上に、放っておけない。
「守る側」なんて、かっこいいもんじゃない。
ただ。
あの時、誰も止めてくれなかったから。
あの時、自分が欲しかったものを、
今、目の前のやつに渡してるだけ。
それだけ。
いるまは床に座って、壁にもたれる。
深く息を吐く。
(俺も、まだ抜けてねえな)
自覚すると、少し苦い。
強いわけじゃない。
平気なわけでもない。
ただ、止まれないだけ。
その時。
ドアが少しだけ開く。
らんが、眠そうな顔でのぞいている。
「……いるま?」
声がかすれてる。
「起きたか」
「なんか、いる気がして」
いるまは小さく笑う。
「気のせいじゃない」
らんは安心したみたいに目を細める。
「ここ、いていい?」
「もういるだろ」
らんは廊下に座り込む。
壁越しに、背中合わせみたいな距離。
触れてないけど、近い。
「いるまも、音だめだった?」
突然の質問。
いるまは少し黙る。
「まあな」
らんが小さく言う。
「ぼくも」
それだけ。
詳しく聞かない。
無理に話さない。
でも、同じだと分かるだけで、少し楽。
「さ」
いるまが言う。
「怖いの思い出すの、なくならねえかもしれないけど」
「うん」
「今の方が長くなれば、勝手に上書きされる」
らんは静かに聞いてる。
「だから今は、ここ増やすだけでいい」
“ここ”――
この家、この夜、この静けさ。
らんが小さく笑う。
「いるま、たまに先生みたい」
「やめろ」
即答。
でも声はやわらかい。
二人はしばらく何も話さない。
ただ、同じ家の空気を吸っている。
過去は消えない。
でも今は違う。
それを、体で覚え直している途中。
守る側も、守られる側も。
夜中。
喉がやけに乾いて、いるまは目を覚ました。
部屋は暗い。
静かな家。
隣の部屋からは、らんの穏やかな寝息がかすかに聞こえる。
(大丈夫だ)
そう確認してから、キッチンへ向かう。
コップに水を入れる。
蛇口の音が、やけに大きく感じる。
その時。
ふと、匂いがした気がした。
鉄のにおい。
湿った床のにおい。
もちろんここには無い。
でも、頭が勝手に思い出す。
視界がゆらぐ。
コップを持つ手に力が入らなくなる。
床に水が少しこぼれる。
(……ああ)
来る。
これは夢じゃない。
記憶だ。
薄暗い部屋。
カーテンは閉めっぱなし。
昼か夜か分からない。
テレビの音が大きいのは、声を隠すため。
「動くな」
低い声。
命令の形をしてるのに、理由はない。
いるまはその時、まだ小さかった。
体が言うことを聞かなくなるくらい怖いのに、
泣くと余計に悪くなるのを知ってた。
だから、泣かない練習を覚えた。
息を浅くする。
視線を下げる。
存在を小さくする。
それが生き延びる方法だった。
足音が近づくたび、体が固まる。
逃げ場はない。
助けを呼ぶ方法も知らない。
時間だけが長くて、
毎日が同じで、
出口があるなんて考えたこともなかった。
ある日。
扉の向こうで声がした。
知らない大人の声。
いつもと違う空気。
何が起きているのか分からないまま、
「もう大丈夫」と言われた。
でも、その言葉の意味を理解するまで、
何ヶ月もかかった。
「……っ」
息が乱れていることに気づく。
キッチンの床に座り込んでいた。
手が冷たい。
視界の端が白くなる。
(終わってる、終わってる)
頭で繰り返す。
でも体はあの部屋のまま。
「いるま?」
小さな声。
らん。
いつの間にか起きて、廊下に立っている。
不安そうな顔。
その表情を見た瞬間。
いるまの視界がはっきり戻る。
ここはあの家じゃない。
この子は、あの頃の自分じゃない。
「大丈夫」
声が少しかすれる。
らんが近づいてくる。
「思い出したの?」
いるまは、少しだけうなずく。
全部。
匂いも、空気も、
自分が小さくなっていた感覚も。
「……なくならないね」
らんがぽつりと言う。
責める声じゃない。
共有する声。
いるまは小さく息を吐く。
「ああ」
短い肯定。
「でも、あそこに戻ることはない」
これは確信。
「今はここだ」
らんがゆっくり隣に座る。
「ここ、静かだね」
「うるさくないだけだ」
「それがいい」
二人は床に並んで座る。
夜の家の空気は、柔らかい。
過去は消えない。
体は覚えてる。
でも今は違う。
怖さを思い出す夜の隣に、
安心できる今がある。
それが、昔との決定的な違い。
いるまは思う。
(あの頃の俺に、教えてやりたい)
未来はある。
静かな夜はある。
守る側になれる日も来る。
「いるま」
「ん」
「ここにいる?」
「いる」
三回目の即答。
らんは安心したみたいに目を閉じる。
過去は消えない。
でも今は、続いていく。
それを二人で、少しずつ覚え直している。
コメント
4件
可愛いねぇ...♡
かんどうする…なんか、(?)(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)