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付き合う、という言葉は簡単だったのに
実際の毎日は、驚くほど不器用だった。
「おはよう」
若井の口がそう動く。
僕はそれを見て、少し遅れて頷く。
それだけで、胸があたたかくなる。
でも同時に、
「恋人」になったことで、
聞こえない現実は消えなかった。
放課後、並んで歩いているとき。
若井が何かを話して、笑う。
僕は、意味が分からなくて、一瞬だけ固まる。
「……ごめん」
そう言うと、若井はすぐに首を振った。
「謝らなくていい」
口の動きが、前よりゆっくりだった。
「分かるまで、待つ」
その一言が、
僕の心に、静かに刺さった。
恋人になっても、
若井は「聞こえないこと」を特別扱いしなかった。
でも、確実に気にしていた。
教室では、必ず視界に入る位置に座る。
人が多い場所では、先に状況を見て
僕を引き寄せる。
守っている、というより、
一緒に世界を歩こうとしている感じだった。
それが、僕には少し怖かった。
(いつか、疲れるんじゃないか)
(僕といるのが、重くなるんじゃないか)
ある日、僕はぽつりと言った。
「……僕さ」
放課後の階段。
夕焼けの色が、二人の影を長く伸ばしていた。
「若井の声、やっぱり聞こえない」
若井は、黙って聞いていた。
「戻らないかもしれない」
「うん」
「……それでも?」
僕は、目を上げた。
若井は、少し困ったように笑った。
「それでも、好きになったのは俺だから」
その表情だけで、
答えは、十分すぎるほどだった。
それでも、僕の中には、
小さなひびが残っていた。
いじめの記憶。
聞こえなかったあの瞬間。
笑われた空気。
夜になると
音がないことより、
自分が欠けている気がすることが苦しかった。
若井は、それに気づいていた。
気づいていたけど、
無理に触れなかった。
ただ、
そばにいた。
僕達の卒業が近づいた頃。
涼ちゃんが、久しぶりに僕達を並べて見た。
「なんか、大人っぽくなったね」
そう言って、軽く笑う。
僕は、涼ちゃんの視線が
僕と若井を、同時に見ていることに気づいた。
「無理してない?」
涼ちゃんは、僕にだけ、そう聞いた。
僕は、少し考えてから、首を振った。
「……無理は、してるかも」
正直に言った。
涼ちゃんは、驚かなかった。
「それでも、自分で選んだんだよ」
僕は、頷く。
「ならさ」
涼ちゃんは、若井の方を見た。
「あんまり、引っ張りすぎないようにね」
若井は、真剣に頷いた。
帰り際、涼ちゃんは僕の肩を軽く叩いた。
「聞こえなくても、ちゃんと見えてるでしょ」
「……うん」
「それで十分だよ」
涼ちゃんは、それだけ言って
先に歩いていった。
やっぱり
年上の、涼ちゃんの、
“ 先輩 ” の背中は
少し遠く見えた。
帰り道。
若井が、僕の手を握った。
「怖い?」
僕は、正直に頷いた。
若井は、少しだけ力を込める。
「俺も」
その口の動きが、
不思議と、やさしく見えた。
音はなくても、
二人の間には、確かなものがあった。
壊れやすくて、
でも、ちゃんと繋がっている。
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