テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
885
2,533
水曜日の放課後、図書室の貸し出しカウンターは、いつも通り空いていた。
俺は、当番として、カウンターの内側の椅子に座っていた。
机の上に、貸し出し記録のノートと、シャープペンと、淡い水色のハンカチを、いつもの三点セットで並べていた。
放課後の図書室は、教室よりも空気が薄い。
誰もいない時間帯のほうが、たぶん長い。
俺は、いつものようにノートの白いページを、ただ開いていた。
そこに——、ひかりが、来た。
「藤宮くん、こんにちは」
「……ああ」
「あの、本を返しに、来ました」
ひかりの手の中には、二冊、文庫本があった。
そのうちの一冊は、四枚の付箋がそのまま挟まったままの、あの本だった。
凛が一度借りて、俺に「読んでみ」と渡してき た、あの本。それを俺が、貸し出し記録の処理として、火曜日の夜のうちに、ふたたび彼女のクラス——というか彼女自身に、普通に返却処理した。
そういう経路で、その本は、今彼女の手に戻っていた。
ひかりは、その本をカウンターの上に、ゆっくり置いた。
置いた本の上に、彼女はほんの一瞬、自分の右手を軽く添えた。
そして、こう言った。
「藤宮くん」
「……ん」
「この本、わたし、先週、返したとき、付箋、四枚、貼ったまま返しちゃってて」
「……」
「それを、たぶん、藤宮くん、見ましたよね」
「……」
「あの、ええと、責めてるわけじゃなくて」
「……うん」
「ただ、確認、です」
声は、いつもの「教室の七瀬ひかり」より、ワントーン低かった。
ワントーン低い声で、ひかりは自分の手のひらを、本の上に置いたまま、こちらを見ていた。
俺は、ノートの上のシャープペンの先を、一旦止めた。
止めて、ゆっくり、答えた。
「……見た」
「……うん」
「貸し出し処理のときに、たまたま」
「うん」
「本を開いた」
「うん」
「四枚、付箋があった」
「うん」
「貼ってあったページの、文章は読んだ」
「……うん」
「以上」
ひかりは、しばらく、何も言わなかった。
言わなかったあと、彼女は、ふっ、と自分の口元のほうに、軽く左手を添えた。
その仕草は、月曜日の朝、教室の対角線の向こう側で、八十パーセントの笑顔を起動しそこねたときの仕草と、まったく同じだった。
「……以上、ですか」
「……以上」
「ありがとう、ございます」
「……うん」
ひかりは、それから、一旦深く息を吸った。
吸って、吐いて、また吸った。
そして、こう言った。
「藤宮くん、もう一回、ちょっとだけ聞いていいですか」
「……うん」
「あの付箋のページの、一番下の一文。覚えてますか」
「……覚えてる」
「言える?」
「『誰かの夜を、ちゃんと終わらせてあげられる人間に、わたしは、いつかなりたい』」
「……」
「……合ってる?」
「合って、ます」
ひかりは、もう一度、フー、と息を吐いた。
吐いた息は、カウンターの上の四枚の付箋の角を、ほんの少しだけ揺らした。
「藤宮くん」
「……ん」
「わたし、その文章、書き込みもしちゃってて」
「……」
「『ヨルさん、ありがとう。これ、わたしの、いちばん、好きな人の言葉と同じです。』、って」
「……」
「それも、見ましたか」
「……見た」
ひかりはまた、ふっ、と目を伏せた。
伏せて、ほんの少しだけ、口の端で笑った。
「藤宮くん、ヨルさん、知ってますか」
——来た。
俺は、自分の中で、土日の間ずっと考えてきた、いちばん、めんどくさい質問が、いちばん、シンプルな形で、目の前に置かれたのを見た。
「正解」には、絶対に、触れない。
ただ、入り口だけは開けておく。
凛と決めた、戦略のど真ん中の瞬間だった。
俺は、ノートのシャープペンをゆっくり、ペンケースに戻した。
戻して、息を吐いて、答えた。
「……ヨル、ってひと、聴いてる」
「あ、聴いてるんですね」
「……うん」
「いつから?」
「……三年前、くらいから」
「三年前?」
「うん。いちばん古い曲のころから」
「……いちばん古い曲って、『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』、ですよね」
「……うん」
「再生数、まだ、五百回くらいの」
「……うん。たぶん、いまも、五百回くらい」
「……」
ひかりは、もう一度、深く息を吸った。
吸って、しばらく、止めた。
止めて、彼女はこう言った。
「わたしも、その曲、いちばん最初に、聴いたの、たぶん、五百回のうちの、いちばん最初のころです」
その一文の一番最後の音節を、彼女は、自分の口の中で、ほんの少しだけふやけさせた。
それは、ひかりが、教室の七瀬ひかりとして、はじめて教室の外で、誰かに「夜のひかり」を、半歩出した瞬間だった。
俺は、それをちゃんと見ていた。
見ていたけれど、声には出さなかった。
代わりに、こう聞いた。
「……五百回のうちの、一番最初のころ」
「うん」
「再生したとき、世界はちょっとマシになった?」
「……マシに、なりました」
「そっか」
「……はい」
「よかった、ね」
「……はい」
俺は、それ以上は、聞かなかった。
聞かなかったのは、たぶん、これ以上のことを、図書室の放課後の誰もいないカウンターで聞いてしまったら、二人とも、たぶん「正解」のど真ん中に、自分から踏み込んでしまうことになるからだった。
ひかりは、それを、たぶん、自分でもわかっていた。
わかっていて彼女は、自分の制服のブレザーの内ポケットの上を軽く撫でた。
そこには、まだ、白いレースのハンカチが入っていた。
火曜日の朝も、月曜日の朝も、その日も、彼女はずっと、それを家で洗って、内ポケットに忍ばせて、登校してきていた。
「藤宮くん」
「……ん」
「これ、貸し」
「……うん」
「いつか、返します」
「うん」
「いつ、返すかは」
「いちばん忘れた頃に、だろ?」
「……はい」
ひかりは、ほんの少しだけ笑った。
今度は、教室の八十パーセントでも、夜のひかりでもなく、図書室の放課後のいちばん薄い空気のなかでだけ起動できる、ごく小さな笑顔だった。
「藤宮くん、ひとつだけ、自分で決めてることが、あって」
「……うん」
「ヨルさんが、自分から『これがヨルです』って言わない限り、わたしは、誰のことも『ヨルさん、ですか』とは聞かないって」
「……」
「ファンの、最低限の、ルールです」
「……うん」
「だから、藤宮くんにも、たぶん、聞きません」
「……」
「ずっと、聞きません」
「……」
俺は、しばらく、何も言えなかった。
言えなかった、というよりも。
たぶん、彼女の一言で、俺の一番大事な前提のほうを守ってくれた、ということを、ちゃんと息を吐いてから、受け止めないといけなかった。
「……七瀬さん」
「はい」
「ありがとう」
「……なにに対しての、ありがとう、ですか」
「……それは、聞かないで」
「うん」
ひかりは、ふっ、ともう一度、笑った。
そのとき、図書室のいちばん奥の書架の影で——、
ピロン、と軽い振動音がひとつ鳴った。
スマホの通知音、だった。
たぶん、図書室全体にギリギリ聞こえる程度の小さな音だった。
だった、けれど。
その音が、鳴った瞬間。
俺の机の上の、淡い水色のハンカチの糸の一本のほうではなく——、書架のいちばん奥の、人ひとり分の暗い隙間のほうから、ひとり分の影が、ほんの一歩だけこちら側に出てきた。
短い、ボーイッシュな、黒髪。
深い黒の、切れ長の目。
細身の、158センチの、小柄な、シルエット。
黒澤凛、だった。
凛は、自分の手のひらの上のスマホの画面を軽く伏せながら、ゆっくり、こちらに歩いてきた。
そして、カウンターの前で立ち止まって、ひかりと俺の顔を、一旦見比べてから、こう言った。
「……ごめん。たまたま、奥で本、読んでた」
「……」
「ふたりの話、たまたま、ぜんぶ、聞こえた」
「……」
「『たまたま』のところ、信じる気ある?」
それは、ひかりに向けて、半分、俺に向けて、半分、向けられた質問だった。
ひかりは、立ち止まったまま、しばらく、凛のほうを見ていた。
見ていたあと、彼女は、ふっ、と目を伏せて、こう答えた。
「黒澤さん」
「ん」
「『たまたま』、で、いいです」
「……いいの?」
「いいです。『たまたま』でいいから、わたしの今のルール、黒澤さんも一緒に守ってください」
「……ルール」
「ヨルさんが、自分から『これがヨルです』って言わない限り、わたしは、誰のことも『ヨルさん、ですか』とは、聞かない」
「……」
「黒澤さんも、お願いします」
「……うん」
「お願いします」
「うん。約束する」
凛は、即答した。
即答した声は、いつもの観察員の淡々とした声だった。ただし、その声のいちばん端のところで——、ほんの少しだけ、彼女自身の、ふつうの呼吸のリズムからズレていた。
俺は、それに、気づいたけれど、気づかないふりをした。
ひかりは、もう一度、深く、息を、吸った。
吸って、カウンターの上の四枚の付箋のついた本に、軽く手のひらを添えた。
「藤宮くん、黒澤さん」
「……うん」
「……ん」
「わたし、図書室、もう出ますね」
「……うん」
「明日も、ふつうに教室で、おはよう、します」
「……うん」
「だから、藤宮くんも、黒澤さんも」
「ん」
「明日、ふつうに、いてください」
それだけ、言って。
ひかりは、軽く頭を下げて、図書室の出口のほうへ、歩いていった。
歩いていく、その背中のスカートの、後ろポケットの上に、白いレースのハンカチが半分だけ、はみ出していた。
それは、わざと、はみ出させたものではなく、本当に急いでしまったときに、たまたま、はみ出してしまったものだった。
俺は、それを、見送りながら、今まで、いちばん教室の対角線の向こう側にいる女の子のことを、近くに感じた。
近くに、感じながら——、声を、かけなかった。
声をかけなかったのは、彼女の「ルール」を、こちらがいちばん最初に守る人間でいたかった、からだった。
凛は、ひかりが出ていった出口のほうを、しばらく無言で見ていた。
見ていたあと、彼女は、自分の手のひらの上のスマホをゆっくり、ひっくり返した。
画面には、ヨルのアカウントから、@yoru_no_hikariさんに、送られた、リアクションの通知の、画面が表示されていた。
————
ヨル:@yoru_no_hikariさんに、いいねを返しました。
(いちばん古い投稿『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』に対する、感想のいいね)
————
俺は、その通知を、覗き込みながら、なにも言わなかった。
凛は、画面をロックして、ポケットにしまった。
しまって、それから、自分のショートヘアの毛先を、片手で軽く耳の後ろにかけた。
「……藤宮」
「……ん」
「お前、いつ、送ったの、これ」
「……火曜日の、夜」
「彼女の、鍵アカに?」
「……うん」
「『正解には触れない』戦略のうちの、入り口開けるほうで」
「……」
「……まあ、そうだろうな」
凛はそれ以上、なにも言わなかった。
代わりに彼女は、自分の口の中で、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こうつぶやいた。
「『通知音』ちゃんと、図書室で鳴った」
そのつぶやきの、最後の音節のところで——、
凛の、観察員のいちばん奥の仕切り紙のいちばん細い場所が、たぶん、ほんの少しだけめくれた。
めくれたぶんを、彼女は、すぐに自分の手のひらで、押さえ直した。
押さえ直したあと、彼女はこう言った。
「……明日、教室で、ふつうにしてろよ」
「……うん」
「彼女、本気で、ふつうに、来てくれるから」
「……うん」
「お前と私が、ふつうに、できなかったら、いちばん損するの彼女だから」
「……うん」
「だから、ふつうにしろ」
「……うん。する」
凛は、それだけ、言って、図書室の別の出口のほうへ、歩いていった。
歩いていく、その背中の短いボーイッシュな黒髪が、放課後の図書室のいちばん奥の窓から差し込む光に、ほんの少しだけ、透けて見えた。
俺は、しばらく、カウンターの上の四枚の付箋のついた本と、淡い水色のハンカチを見ていた。
見ながら、思った。
——ひかりは、最後まで、「藤宮くん、ヨル先生ですか」とは、言わなかった。
——「ファンの、最低限のルール」と言って、自分から、その質問を自分の口に入れないことにした。
それは、彼女が、いまの自分にできる、いちばん強い「断定しない」だった。
俺は、机の上のハンカチを、軽く、手のひらで、撫でた。
水曜日の放課後の図書室のいちばん最後の光が、カウンターの天板をほんの少しだけ、ふやけた色に染めていた。
コメント
1件
ああ、もう、この第15話……すごくよかったです。特に、ひかりが「藤宮くん、ヨル先生ですか」と最後まで言わなかったところ。あれ、めちゃくちゃ彼女の強さと優しさでしたね。「ファンの、最低限のルール」って言葉に、彼女の覚悟が全部詰まってた。それに、凛が図書館の奥から現れて「たまたま、いいですか」って聞く場面、三人の距離感がぎゅっと詰まった感じがして胸が熱くなりました。そしていちばん最後の、凛の小さなつぶやき「『通知音』ちゃんと、図書室で鳴った」——あそこ、彼女の観察員の仮面が一瞬だけ外れて、すごく好きです。