テラーノベル
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木曜日の朝、教室は、いつも通りだった。
俺はいつも通り、いちばん後ろのエアコンの真下、廊下側の席に座った。
机の上に、教科書、ペンケース、ノート、そして淡い水色のハンカチを、0.2センチ引っ込めた位置に置いた。
凛はいつも通り、自分の席で頬杖をついていた。俺と目が合うと、唇だけで「ふ・つ・う・に」と、四文字伝えてきた。
そして、ひかりもいつも通りに、教室に入ってきた。
「おはよ〜! みんな、今日も生きてる?」
ワントーン高い声。
八十パーセントの笑顔。
半歩、広い歩幅。
宣言通り、ふつうの教室の七瀬ひかりだった。
——よかった。
俺は心の中で、ほんの少しだけ、息を吐いた。
昨日の図書室のことは、なかったことにするのではなく「ふつうの場所に、ちゃんと戻す」。
それが、ひかりの選んだ、いちばん強い方法だった。
その「ふつう」は、たぶん、木曜日の一時間目までは、ちゃんと保った。
問題は、二時間目と三時間目の間の休み時間に起きた。
きっかけは、本当に些細なことだった。
クラスの女子のひとりが、ひかりの席のところで、スマホの画面を、見せながら、こう、言ったのだ。
「ねえねえ、ひかり、このアカウント知ってる? ヨルって人の一番古い曲、再生数少ないのにコメント欄、すごい熱いんだけど」
「……え」
「これこれ、『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』ってやつ。なんか、最近、誰かが掘り起こして、ちょっと話題になってるらしくて」
俺は自分の席で、シャープペンを止めた。
教室の対角線の、いちばん遠い席で、ひかりの背中が、ほんの一瞬こわばったのがわかった。
「あー……、うん、知ってる、かも」
「やっぱ? ひかり、こういうの詳しいもんね」
「えへへ、まあ、人並みに」
「でさ、このコメント欄に、めっちゃ長文の考察してる鍵アカの人がいて——あ、鍵だから中身は見えないんだけど、名前がなんか、すごいの。『夜の、ひかりに救われた人間の墓場』だって」
教室の、ひかりの周りの女子たちが、軽く笑った。
「なにそれ、こわー」
「『夜の、ひかり』って、誰のことよ」
「ひかりのことだったりして」
「えー、まさかー」
——冗談だった。
それは、たぶん本当に、なんの悪意もない、ただの休み時間の軽い冗談だった。
「ひかりのことだったりして」。
クラスの女子は、たぶん、その一言を、五秒後には、忘れる。
忘れる程度の、ただの軽口だった。
ただ、その軽口が教室の対角線のいちばん細い場所を、パチン、と切った。
ひかりの肩が、止まった。
完全に、止まった。
八十パーセントの笑顔を、起動しようとして、その手前で固まった。
「……え、なに、ひかり、どしたの?」
「あ——、ううん、なんでも」
「顔、ちょっと、赤い?」
「えっ、そう? あはは、なんか、暑くて」
「五月だよ?」
「だ、だよね、あはは」
——ごまかせていなかった。
普段の八十パーセントの七瀬ひかりなら、こんな軽口、笑い飛ばして、五秒で別の話題に流していた。
ところが、木曜日のひかりは、流せなかった。
流せなかったのは、その軽口の「夜の、ひかりに救われた人間の墓場」が、本当に自分の鍵アカの自己紹介だった、からだ。
そして、その鍵アカが、今クラスの女子のスマホ画面に表示されている。
クラスメイトは、誰もそれが、ひかり本人のアカウントだとは、思っていない。
思っていない、けれど。
当のひかりだけが、その画面を見て、自分の心臓が、教室の真ん中で、今いちばん大きな音を、立てていることに、気づいていた。
「ねえ、ひかり、ほんとに大丈夫?」
「だ、大丈夫、大丈夫」
「保健室、行く?」
「ううん、ほんとに、平気——」
そのとき。
ひかりの机の下に置いていた、スマホが、ポン、と振動した。
通知音は、教室の喧騒の中では、ほとんど聞こえなかった。
ほとんど、聞こえなかった、けれど。
ひかりの周りの女子の一人が、たまたま、その振動に気づいた。
「あ、ひかり、スマホ、鳴ったよ」
「えっ」
「画面、光ってる」
ひかりの手が、反射的に机の下のスマホのほうへ、伸びた。
伸びて、その手が、画面を伏せようとした、そのコンマ何秒の間に。
机の下のひかりのスマホの画面に、通知が、一行、表示された。
それは、教室の女子の誰の角度からも、見えなかった。
ただ、ひかりの、すぐ斜め前を、たまたま通りかかった、ひとりの女子——、
黒澤凛だけが、その通知の最初の数文字を見てしまった。
————
ヨル:@yoru_no_hikariさんが、あなたを——
————
凛の足が、止まった。
止まった足のつま先が、ひかりの机の、すぐ横の通路の上で、0.2センチだけズレた。
凛は、その通知の続きを見なかった。
見ないことにした。
見ないことにして、そのまま、普通に通り過ぎようとした。
ところが。
ひかりが、スマホの画面を、伏せようとした、その手と。
凛が、通り過ぎようとした、その足が——、
教室の対角線のいちばん細い場所で、ほんの一瞬交差した。
ふたりの視線が、0.1秒、合った。
その0.1秒で、ふたりは、たぶん、お互いに全部わかった。
ひかりは、凛が通知を見たことを、わかった。
凛は、ひかりが自分が「夜の、ひかり」本人であることを、教室でいちばん隠したい瞬間に、いることをわかった。
そして、教室の女子たちは——、その0.1秒には、なにも気づいていなかった。
「ひかり、誰から? 彼氏?」
「ち、ちがうって!」
「えー、怪しー」
「ほんとに、ちがうから!」
ひかりの声が、いつもより半オクターブ、高く跳ねた。
跳ねた声は、八十パーセントの笑顔のギリギリ外側の、九十五パーセントくらいの、無理のある明るさだった。
その無理を、教室の女子は、たぶん「彼氏からの連絡を隠してる、かわいい七瀬ひかり」として、消費した。
からかいの、ちょうどいいネタとして。
ただ、ひとり。
凛だけは、それを別の意味で受け取っていた。
凛は、ひかりの机の横で、ほんの一瞬、立ち止まったあと——、
教室のいちばん明るい場所に向かって、ふつうの観察員の声でこう言った。
「七瀬さん」
「……っ、は、はい!」
「次、移動教室。音楽室。早く行かないと、また廊下混むよ」
「……あ」
「私も、いま、ちょうど、行くとこ」
「……」
「一緒に行く?」
——、
教室の女子たちが、軽く、「おっ」という顔を、した。
黒澤凛が、誰かを自分から移動教室に誘う。
それは、たぶん、この教室では、わりと珍しい光景だった。
凛は、ふだん、誰ともつるまない。
陽人とすら、教室では最低限しかつるまない。
そういう人間が、学校一の七瀬ひかりを自分から誘った。
「えー、凛と、ひかり、意外な組み合わせ!」
「ね、なんか、新鮮!」
教室の空気が、ほんの少しだけ、その「意外さ」のほうに流れた。そして、その流れが——、ひかりの机の下のスマホの通知から、教室全員の注意をそらした。
俺は、自分の席で、それを全部見ていた。
見ていてわかった。
凛は、いま、ひかりを助けた。
「彼氏からの連絡を隠してる七瀬ひかり」という、教室の安全な物語のほうに、空気を、固定したまま——、ひかりの鍵アカの通知を、誰の目からも隠した。
隠したうえで、ひかり自身を教室のいちばん危ない場所から、物理的に移動教室へと連れ出した。
それは、観察員のいちばん得意な技だった。
場の空気を読んで、いちばん損をする人間が、いちばん損をしないように、空気の流れをほんの数センチだけズラす。
凛は、それを自分の感情とは、一切関係のない顔でやってのけた。
——いや。
たぶん、関係はあった。
大いに、あった。
ただ、凛はその「関係」を、自分の顔のいちばん奥の仕切り紙の向こう側に押し込んだまま、表向きは、ただの観察員として、ひかりを助けた。
それが、凛のいちばん強い「ふつう」だった。
移動教室の廊下。
俺は、少し離れて二人の後ろを歩いた。
ひかりと凛は、並んで歩いていた。
並んで、しばらく、なにも言わなかった。
廊下のいちばん端の窓のところで、凛が、ふと立ち止まった。
ひかりも、それに合わせて立ち止まった。
凛は、窓の外を見ながら、ひかりに向かって、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こう言った。
「七瀬さん」
「……はい」
「私、昨日の図書室で、約束したこと、ちゃんと守る」
「……」
「『ヨルさんが、自分から、これがヨルです、って言わない限り、誰のことも、ヨルさんですか、とは聞かない』」
「……はい」
「だから、私、今の通知も見なかったことにする」
「……黒澤さん」
「ん」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「……」
「私はただ、観察員だから」
「……観察員?」
「私の自称」
「……」
「観察員は、観察するだけ。手は出さない。手を出したら、それは観察員じゃなくなる」
「……」
「でも」
凛の声が、そこでほんの一瞬、止まった。
止まった声のいちばん端のところで——、いつもの、彼女のふつうの呼吸のリズムから、ほんの少しだけズレた。
「……でも、今日は、ちょっとだけ、手を出した」
「……はい」
「だから、今日の私は、ちょっとだけ、観察員じゃなかった」
「……」
「それ、たぶん、お前のせいでも、藤宮のせいでもない」
「……じゃあ、誰の」
「……それは」
凛は、そこで、言葉を止めた。
止めて、自分の短いボーイッシュな黒髪の毛先を、片手でぎゅっと握った。
それは、彼女の後悔と葛藤のサインだった。
握った手を、ゆっくり離して、彼女は窓の外を見たまま、こう言った。
「……それは、今日は、言わない」
「……はい」
「言わないけど」
「……はい」
「七瀬さん」
「はい」
「お前は、ちゃんと、ヨルのこと、いちばん最初の五百回のころから、好きだった人なんだろ」
「……はい」
「それは、本物だろ」
「……本物、です」
「だったら、それだけは、絶対に、手放すな」
「……」
「教室で、ふつうの七瀬ひかりをやるのはいい。やれ。やり続けろ」
「……はい」
「でも、夜の七瀬ひかりが、ヨルのこと、五百回のころから好きだった、っていう、その一個だけは」
「……はい」
「誰にも、教室にも、私にも、絶対にブレされるな」
「……」
「それは、お前のいちばん本物だから」
ひかりは、しばらく、なにも言わなかった。
言わなかったあと、彼女は、ふっ、と目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、八十パーセントでも、夜のひかりでも、図書室の薄い笑顔でもなく——、たぶん、生まれてはじめて、誰かに自分の「いちばん本物」を、まるごと肯定された人間の笑顔だった。
「黒澤さん」
「ん」
「黒澤さんは、すごく優しいですね」
「……優しくない」
「優しいです」
「観察員は、優しくない」
「観察員じゃないって、さっき、自分で、言いました」
「……」
「今日の黒澤さんは、ちょっとだけ、観察員じゃなかったって」
「……」
凛は、その指摘に答えなかった。
答えない代わりに、彼女は自分の頬の内側を、軽く噛み込んだ。
それは、彼女が自分の決意を、もう一度自分に念押しするときの、いつもの癖だった。
——「ふつう」で、いられる間は「ふつう」でいる。
凛は心の中で、もう一度その言葉を、自分に押し込んだ。
押し込んだ、けれど。
今日彼女は、教室で、ひかりのために、ほんの0.2センチだけ空気をズラした。そのことは、たぶん、彼女の中の「ふつう」を、もう半歩後ろに下がらせていた。
そして、そのことに——、
凛は自分でも、もう気づいていた。
気づいていて、今日のところは、それをちゃんと名前にしないことにした。
音楽室の扉の前で、ひかりは一旦、立ち止まって振り返った。
振り返って、少し離れたところに立っていた、俺のほうを見た。そして、ふつうの八十パーセントの七瀬ひかりの声で、こう言った。
「藤宮くん」
「……ん」
「明日も、ふつうに、おはようしますね」
「……うん」
「だから、藤宮くんも、黒澤さんも」
「……」
「ふつうにいてください」
それは、昨日の図書室の彼女のセリフと、まったく同じ言葉だった。
同じ言葉なのに——、今日の「ふつう」は、昨日よりほんの少しだけ、無理のある「ふつう」だった。
無理のある「ふつう」を、彼女はちゃんと、自分の手で立て直そうとしていた。
そのことが、たぶん、彼女の本物だった。
俺は、頭を軽く下げた。
「……明日、ふつうにいる」
「はい」
「七瀬も」
「はい」
「無理、しすぎるなよ」
「……っ」
ひかりの八十パーセントの笑顔が、ほんの一瞬、ぐらり、とズレた。
ズレた、けれど。
彼女は、すぐにそれを立て直した。
立て直して、音楽室の扉を開けて、中へ入っていった。
凛は、その背中を見送ってから、俺のほうを振り返らずに、こう言った。
「藤宮」
「……ん」
「お前、火曜の夜、彼女の鍵アカに、いいね、返しただろ」
「……うん」
「そのいいね、教室のいちばん危ないタイミングで、通知になって鳴った」
「……」
「もうこれ以上、教室の中で向こうのスマホを、鳴らすな」
「……」
「鳴らすなら、教室の外で鳴らせ」
「……うん」
「『通知音』は」
「……」
「教室で鳴ったら、世界、壊すから」
凛は、それだけ言って、音楽室の中へ入っていった。
その背中の短いボーイッシュな黒髪が、音楽室の窓から差し込む、五月下旬の午前の光に、ほんの少しだけ、透けて見えた。
俺はその場に、しばらく立っていた。
立って、自分のスマホを、ポケットから取り出した。
ヨルのアカウントの、通知欄を、開いた。
@yoru_no_hikariさんからのリアクションが、またひとつ、増えていた。
それは、図書室での会話のあとに、ひかりが家で、もう一度、こっそり押したいいねだった。
俺はその通知を、しばらく見ていた。
見て、それから画面を伏せて、ポケットにしまった。
しまって、心の中で、こう決めた。
——「通知音」は、もう教室では鳴らさない。
——鳴らすなら、教室の外で。
——いちばん、世界を、壊さない場所で。
そして、もう一行。
——それでも、ひかりの「五百回のころから好きだった」という、いちばん本物のところだけは、絶対にこちらからも、ズラさない。
教室の対角線は、木曜日の朝の休み時間に、確かに一度、パチン、と切れた。
切れた、けれど。
切れた糸の両端を、凛が観察員として、ギリギリのところで結び直した。
結び直された糸は、昨日より少しだけ短くなって、少しだけ太くなっていた。
その糸の、いちばん細い場所が——、これから、どこまで保つのか。
それを、たぶん、明日からの教室で、もう一度確かめていくことになる。
ただひとつだけ、はっきりしたことがあった。
ひかりは、今日教室のいちばん危ない瞬間に、自分のスマホの通知を見られても——、最後まで「藤宮くん、ヨル先生ですか」とは、言わなかった。
言わない、というルールを、彼女は教室のいちばん壊れそうな場所でも、守りきった。
五月下旬の木曜日の、音楽室の前の廊下に、午前の光が、ほんの少しだけ、ふやけた色で差し込んでいた。
コメント
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いやもう、凛かっこよすぎんだろ……!! 「観察員として手は出さない」って言いながら、しっかりひかりを助けて、しかも自分の気持ちまで整理してるのガチでプロやん。教室の空気を0.2センチズラすって表現、めっちゃ刺さったわ。ひかりが「ふつう」を必死に守ろうとする姿も、凛の言葉でちょっとだけほぐれた感じがして、胸が熱くなった。次、どうなるんだこれ……!
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