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第一章:五千の拍手と、手作りのパズル
薄暗いリビングの床に、正座した姿勢のまま、美紗子(みさこ)は数時間も動いていなかった。
手元にあるのは、既製品ではない、厚紙をカッターで歪に切り抜いた手作りのパズルだ。 当時三歳だった長男の知育のために、寝る時間を惜しんで、色鉛筆で細かく絵を描いて作ったものだった。
「私は、母親なんだから。全部、完璧にやらなきゃ……」
乾燥してひび割れた唇が、音のない呟きを漏らす。
美紗子の脳内は、常に数千発の火花が同時に弾け飛んでいるかのように目まぐるしかった。 一つのことに過剰に集中してしまうと、周囲の音が一切聞こえなくなる。
時計の針は深夜三時を回っているのに、パズルの絵柄の微細なズレが気になって、やり直さずにはいられない。
定型発達の「普通」の枠に我が子を押し込むためなら、自分の命などいくら削っても構わないと本気で信じていた。
◇
だが、人間の肉体には限界がある。
パズルを握りしめたまま、ある夜、美紗子の視界は文字通り暗転した。 重度の不眠症と精神の虚脱。
気がついた時には、外界から完全に遮断された精神科病院の保護病棟にいた。
一ヶ月の入院生活は、白く、静かで、冷徹だった。
そこで美紗子は、同じように「子育てのノイローゼ」を理由に入院してきた一人の母親と出会う。
その女性は、ベッドの上でスマートフォンを眺めながら、美紗子に昏い笑みを向けた。
「ねえ、美紗子さん。家の中の地獄なんて、誰も分かってくれないでしょ? だったら、ここに吐き出せばいいのよ。SNS。他人だからこそ、共感してくれる仲間が星の数ほどいるんだから」
◇
退院したその夜、美紗子は震える指で初めてのアカウントを開設した。
ターゲットは、何が起きても無表情で、判で押したようなルーティンワークを繰り返す研究者の夫・克己(かつみ)だった。
家の中の異常事態に一切目を向けない夫への、長年の怨嗟を文字に紡ぐ。
『夫はアスペルガー(ASD)です。私の苦しみが1ミリも伝わらない。家庭という名の無菌室で、私は毎日、心を殺されています』
画面をタップし、投稿する。
翌朝、スマートフォンの通知ランプが狂ったように点滅していた。
【5,000いいね】
「あ……ああ……」
美紗子の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
それは感動の涙ではなかった。
乾ききった砂漠に、極上の麻薬が染み込んでいくような、脳が痺れるほどの快感だった。
私の苦しみは正しかった。
私は被害者だったんだ。
世界が私を肯定している。
美紗子の脳内で、承認欲求という名の、決して消えない業火が燃え上がった瞬間だった。
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