「ジョー」と「デザイナー」が車から降りた。
静岡県しそね町。
ビスタの建設現場から、約1キロの距離。
久しぶりに訪れた別荘だった。
曽祖母が亡くなったあと、実家は解体されて一時野原になった。
しかし父・吾妻和志が計画したビスタ建設に合わせて、ここに別荘を建てたのだ。
外観は昔の実家をほぼそのまま再現させた。
石畳の庭園や倉庫を高い塀で囲んだ日本家屋だ。
故郷を愛した吾妻和志は、時々ここを訪れた。
勇信も過去に何度かきたことはあったが、曽祖母が亡くなってからは、ほとんど訪れることはなかった。
周辺に何もない退屈な田舎町だ。
子どもの頃に訪れていたのは曽祖母がいたからであり、大人になってからは特にここを訪れる理由はなかった。
そんな別荘が、光を放つときがきた。
橋頭堡。
ここしそね町の別荘こそが、キャプテンのシナリオを実践するための足掛かりとなるのだ。
月明かりが支える正門に立ち、オートロックのパスワードを解除した。
中庭を越え玄関を開けると、まだ新しい建物のにおいが残っていた。
電気をつけて窓を開け、家の中を隅々まで点検する。
バスルームの電気がつかなかったため、ジョーは携帯電話を手にした。
「キャプテン。電気がひとつつかないな。電球変えないとなんだが、これどうやってやるんだ。規格とか調べてもらえるか」
<了解>
新しい知識は、母体であるキャプテンが学習しなければならなかった。
電球ひとつとってもキャプテンが知識を得れば、のちに増殖する勇信は、その知識をもって生まれるからだ。
さらにはまだ決まりきっていないシナリオを具体的な形にするには、多くの知識が必要でもある。
知識と経験の蓄積により、選択肢が広がるのだから。
つまり何かを学ぶことは、キャプテンにとって一石何鳥にもなるものだった。
知識は生存と直結する。
自分が増殖するという、誰の助けも得られない状況だ。
だからこそすべての勇信は、日々新しい知識を取り入れ、共有しながら生きるようにしている。
「ジョー。私はシャワーを浴びて、それが終われば即入眠させてもらおう」
デザイナーは電気の点かないバスルームへと入っていった。
「特に何もすることがないから、休んだほうがいいだろう。俺はちょっと走ってくる」
ジョーはスポーツウェアに着替えて外に出た。
前庭で軽くストレッチし、それから頭にアクションカメラを固定した。
ジョーが走りはじめると、アクションカメラが目の前の景色を記録していく。
他の勇信が今のしそね町を把握するには、動画を撮るのが最も効率的だった。
夜と朝。
ふたつの顔をもつしそね町の風景を撮るため。
そして堀口ミノルを探すため、ジョーはここを訪れた。
ハァハァ……。
呼吸音とウェアの擦れる音をカメラが記録している。
久しぶりに訪れたしそね町だったが、ほとんど何も変わっていないように思えた。
日ごとに景色が変わる東京とは違い、畑は畑のままであり、民家はただ古くなっただけだ。
曽祖母の優しい笑顔と、おいしい田舎のごはん。
そして町民たちの憧憬の視線、あるいは畏怖の視線。
勇信が覚えているのはその程度だった。
しかし堀口ミノルに会ったことで、埋もれていた記憶の一部がよみがえった。
秘密基地ビスタと、複合商業施設ビスタ。
偶然か必然か……。
「――ビスタ」
声を出して言ってみた。
父の指揮のもとに動き出したビスタプロジェクトは、先日、兄・勇太によって停止した。
不正が発覚したことによって解雇された堀口ミノルと、彼が過去に見せてくれた地下施設『vista』。
どう考えても偶然の一致には思えなかった。
ビスタと、ビスタ。
自分が増え続ける状況で、ビスタは無視しては通れない何かを持っている気がする。
ハァハァハァハァ……。
ジョーはとまることなくランニングを続けた。
彼にとって運動とは、神聖なる儀式のようなものだった。
俺が生まれた意味、属性。
俺の存在を維持するためには、他の勇信よりも強くなくちゃならない。
他の勇信を守るため、自分自身を守るため。
マラソンランナーにも劣らない速度で、ジョーはしそね町を走った。
記憶の中に埋もれていた『あの場所』を再び訪ねるために。
「――ビスタ」
川を渡りいくつもの畑を越え、数少ない商店を通り過ぎて、ジョーは記憶の中心地へと向かう。
廃墟となった遊園地。
木々の向こうに見えた観覧車と、動かないメリーゴーランド。
その他の風景はもう覚えていない。
廃遊園地に関しては、あまのじゃくが事前に調べていた。
しかしこれといった情報はなかったそうだ。
単にあまのじゃくが真剣に調べなかったのか、あるいは本当に情報がないのかはわからない。
ジョーは廃遊園地があったはずの地域をくまなく走り回った。
しかし観覧車はおろか、ただ平凡な田舎道が続くだけだった。
「跡形もないな。まったく見当違いの場所にきてしまったか?」
ジョーは体を反転させ、きた道を戻りはじめた。
すでにアクションカメラの撮れ高は十分である。
あとは肉体の訓練のために走るだけだった。
ジョーは往路の倍ほどのスピードで走りはじめた。
すぐに汗が吹き出し、トレーニングウェアを濡らした。
曽祖母の家があった別荘につくく、そのまま前を通り過ぎ、今度は反対方向へと直進していく。
そうして10分ほど進むと、視界の先にビスタ建設現場が見えた。
一定の間隔で並ぶ街灯の明かりによって、ビスタが形どられていた。
まるで田舎の真ん中に建てられた城のようだ。
「それなりにかっこよくはあるな。ハァハァ……」
ジョーはようやく足を止め、フェンスに沿ってビスタ周辺を歩いてみた。
フェンスに貼りつけられたいくつかの案内版と広告。
近いうちにすべて撤収されるだろう。
「まさか……兄さんは建物自体を解体させるつもりか。いや、それはあり得ない。堀口さんが掲げたスポーツ振興事業は、十分に勝算のあるプロジェクトだ。そして何より日本の総合格闘技の未来を切り拓く人材が、ここから生まれるかもしれないんだ。
プロジェクトをとめてはいけない。事業面においても、地方都市再生面においても。そして日本のスポーツ界と格闘技界のためにも」
ビスタを目の前にしたことで、ジョーの頭の中に未来の絵が浮かんだ。
「むしろ現場を見たからこそ、兄さんはビスタ計画を中止させたのかもしれないな。いくらここが故郷とはいえ、あまりのど田舎すぎる……。
なぜ父さんは、赤字が目の見える田舎のショッピングモールを建てようとした?」
ジョーがつぶやいたそのとき、携帯電話に連絡が入った。
<あまのじゃくのヤロウめ!>
キャプテンからの連絡だった。
「どうした?」
<ヤツは面倒だったから、情報をまともに提供しなかったと自白した>
「……またかよ、あのクソあまのじゃく」
<廃遊園地のことなんだが、現在は普通の公園になっているらしい。とある廃墟マニアのブログにそう書かれていた。久しぶりに訪れたらおんぼろ公園になっていてがっかりしたと、ブログには書かれてある>
「さっき行ってみたんだが、自分がどこにいるのかまったくわからなかった。暗くて今日は無理だから、明日の早朝ランニングのときに行ってみる」
<わかった。あと、追加情報だ。現在公園となった土地は、吾妻グループの所有地だ。しかもあの当時に廃遊園地を所有していたのは父さんだった。やはり何かがあるに違いない。
とにかく住所を送っておくからあとで確認してくれ>
「住所はいらない。ランニングがてら、宝探しを楽しむつもりだ。もし体力の限界まで走ってみて見つからなかったら、地域の誰かに聞いてみるさ」
<それをするなって言っただろ。地域住民との接触はご法度。何のために別荘におまえらを送ったと思ってる>
「チッ、わかったよ」
ジョーは携帯のカメラを起動させ、インカメラで自身の姿を確認した。
ここに来る途中に購入した、安価なトレーニングウェアだ。
上下セット4千円。
「思ったより動きやすくはあるが、ここまでしなきゃならないのか……。いや、やらないとだろうな。きっと」
ジョーは自分の姿を撮影したあと、チッと再び舌打ちした。