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――次の日も、明くる日も、毎日。亜美は彼等の下へと足を運んだ。
それまでの調べで分かった事は、彼等に何も不審な処は無い。否それ以上に、彼等に接すれば接する程、その暖かみが自分を浸食していく事に気付く。
当初は此処の獣医、如月幸人の殺人者としての二面性及び、狂座との関連性を知る事だけが目的だった筈だ。
“それなのに……”
何時の間にか目的が目的でなくなっていく。
ただ彼等にまた逢いたい――それだけ。その想いが日に日に大きくなっていった。
居心地が良いのだ。かつて決別した、“せざるを得なかった”家族という絆を、彼等の下で再び思い出させてくれた気がしたのだ。
だからこそ亜美の心境は二つに揺らいでいた。
それはこのまま狂座を究明する道を進む事。そしてもう一つが、全てを忘れ“普通”の道を進むという選択肢だ。
狂座を追い続ける事。それが正しい道である筈がない。この先に在るのは深淵へ誘う蛇の道。
危険な事には関わらない事が長生きの秘訣。これは馬鹿でも分かる。
亜美が選んだ道。それは――
『分かってる。でも……』
これは自ら選んだ道。今更断念出来ない――
“あの子の為にも――”
――ある日の昼下がり。こんな事があった。それは悠莉が怪我をした子猫を抱いて、診療所へ連れて来た時の事だ。
『――大丈夫だからね。君は私が絶対に助けるから。安心していいよ』
その場に居合わせた亜美は、改めて幸人の存在に目を見張った。
“なんて優しい目をするのかしら……”
それは裏の無い、慈愛の瞳。凡そ殺人者には在る筈がないもの。
子猫の鳴き声で応えるそれは、まるで本当に動物と心を通わせ、会話しているように見えた。
ますます理想と現実がかけ離れていく。そしてそれは亜美が望む事――
“彼が狂座、ましてや殺人者であっていい筈がない――”
幸人に対する願望だった。日に日にその想いは募っていく。
そしてこの数日で分かった事は、彼に『全く欲が感じられない』という事。
獣医だから当然と云えばそれまでだが、全ての職は慈善事業ではない。存続の為には必ずそこに利は必要不可欠。
だが幸人の利益度外視は異質とも思えた。
この子猫だって只の野良猫の筈だ。
何故ここまで出来るのか?
『この子の里親が見つかるまで、この子はうちで預かろう』
『賛成~。ジュウベエ、お兄ちゃんだね~』
そこには一円の利益も無い。彼等にとってはこれが当たり前なのだ。
自分の考えがおかしいだけかもしれない。亜美は思いきって聞いた事があった。
“どうしてここまで出来るのか”――を。
『彼等も同じ。痛ければ辛いし、楽しければ嬉しい。一緒じゃないですか我々と……。そこに何か理由が必要ですか?』
その問いに幸人はさも当然と言わんばかりに。
確かにその通りだと思った。
“同じ命”
見返り等ではないのだ。苦しむ彼等を救いたい――ただそれのみ。
一言で現すのは簡単だ。だが有言実行がどれ程大変か、その位は分かる。
『だってボク達、皆の声が分かるんだもんね~』
動物の言葉が解る――そう悠莉が言った事は亜美には理解出来なかったし、話し半分で聞いていた節もあるが、少なくとも動物の気持ちを汲んでいる事は確かだろう。
此所の飼い猫であるジュウベエとのやり取りを見るに、まるで本当に会話が成立しているかのようにも見えたものだ。
動物の気持ちが誰よりも理解出来る――“それこそが幸人、彼が獣医を志した理由なのか?”
『……偽善と思ってもらって構いません。私は人は治せない――治す資格が無い。だからこそせめて……』
そう言って子猫を包むように撫でる幸人の姿は、何よりも純粋で――美しいと思った。だがそれと同時に、彼の瞳が一瞬哀しそうに見えたのも亜美は見逃さなかった。
“人を治す資格が無い?”
それは医師免許と云った類のものとは、何処か根本が違う。
接すれば接する程、もっと知りたいと思った。狂座の関わりとしてではなく、一人の人間――男性として。
そして亜美は気付いてしまった。
何時の間にか自分が、幸人という存在そのものに惹かれていた事に。
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「――幸人先生、良かったら少し御時間を頂けますか?」
ある日の事。何時ものよう診療所へ赴いた亜美の、唐突なその言葉の意味。
「二人で――ですか?」
それを予測していた訳でもあるまいが、幸人は横目でジュウベエと子猫とじゃれ合う悠莉へと目をやる。
「はい……出来れば」
亜美の表情は真剣だった。それは出来ればこれから話す事は、二人だけの間で留めておきたい意思表示の顕れ。
「何やら込み入った話みたいですね。分かりました……悠莉! 少しの間、此所見といて」
「――は~い」
二つ返事で引き受ける悠莉。彼女もこれが何を意味するのか理解している。
「でもでも~、二人っきりで変な事しちゃ駄目だよ~」
「――っな!」
――が、一々一言余計なのは、相変わらず幸人の悩みの種だ。
「あっ――いえ、そんなつもりで……」
茶化されたのを本気で受け取る亜美も亜美だ。既にその表情は真っ赤になっていた。
「済みません……。あの子は何時も冗談ばかりで」
幸人は『コホン』と咳払いを一つし、固まってしまった亜美を案内する。
“余計な事言うな!”
その際に遠目で、にやける悠莉とジュウベエを睨みつけたのは言うまでもない。
「ククク、聞き耳発てちゃおうかお嬢?」
「面白そう! でもでも~、大切な話だろうから、もうちょっと様子見てからだね~」
診療所に二人取り残された悠莉とジュウベエ。何やら愉しそうに幸人と亜美のこれからの顛末に、色々と花を咲かせていた。
勿論冗談半分だろうし、これが重要であろう事は分かってはいても茶化さずにはいられない。
「だな……。でももし、あの二人が本当に変な関係になったとしたら? 幸人はともかく、彼女の方は明らかに幸人に惚れてる節があるからなぁ……」
間違いはないだろうが、鋭過ぎるジュウベエの眼には、亜美の事は一目瞭然。
「そん時は乱入。そして幸人お兄ちゃんは制裁!」
悠莉も勿論気付いている。口調も表情も笑顔だが、その右拳はしっかりと握り締められていた。
仮にそうだとしても、その時に悪いのはあくまで幸人だと。
“おぉ怖っ――”
その可愛らしくも有無を言わせぬ迫力には、彼女をよく知るジュウベエも震え上がろうというもの。
「はてさて、どうなる事やら……」
「いざとなれば“立体透視鏡還”で丸わかりだし~」
「まあ……幸人もそこまで馬鹿じゃないよな~」
二人と――その傍らで不思議そうに、まだまだ意味が全く呑み込めていない仔猫は、既にこの場には居ない幸人達の方へと視線を送っていたのだった。
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