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第五十九章 君でいること
夕暮れだった。
屋上へ続く扉を開けると、昼間の賑やかさが嘘みたいに静かだった。
茜色に染まり始めた空を見上げ、小さく息を吐く。
家路を急ぐ人の群れが、行き交う街並み。
買い物袋を提げた女性が小走りに駆けて行く。誰かが待つ家へ向かうその足取りは軽やかに見えた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
📩オーナー『今日、来られる?返事待ってます。』
短いメッセージ。
画面を開いたまま、返信の文字だけが何度も消えていく。
ふと、二人の顔が頭に浮かんだ。
〝ちゃんと、戻ってきな〟
呆れたようにそう言った亮平の言葉。
苦しそうに眉を寄せながら、
〝今すぐ辞めろ。見てられない〟
と言った蓮の顔が浮かぶ。
二人の悲しむようなことはもうしたくない。
「今晩、うちにおいで」
亮平のその言葉が今の翔太の原動力だった。
📩翔太『ユキはもう辞めます。ごめんなさい』
すぐに電話がかかってきて、思わずスマホの電源を切った。
翔太💙「ごめんなさい……」
西の空に沈む太陽が大きく伸びて夜を連れてくる。
中庭の白詰草は建物の影になって見えなくって、少しだけ欄干に身を預けて覗き込んだ。足が竦むような高さにすっと吸い込まれそうな感覚があって慌てて後ろへ身体を戻した。
亮平💚「危ないじゃない……翔太?平気?」
翔太💙「うん大丈夫だよ。ちょっと下覗いただけだよ」
亮平💚「そうじゃなくて……ここ」
亮平は俺の胸に手を充てて目尻を下げた。優しくて、全てを見透かすその瞳から思わず目を背けたくなった。次の瞬間には視界が暗くなって、亮平の匂いに包まれて抱きしめられているのだと分かった。
翔太💙「……亮平?」
亮平💚「こうしたいって思った。ダメだった?」
ずるい。
そんな優しくされたら、泣いちゃうじゃん。
亮平の白衣の袖をぎゅっと掴み、顔を胸に埋めた。
堰を切ったように溢れる涙は、もう止められなかった。
亮平💚「言ってご覧?少しは元気になれるかもよ」
翔太💙「がっかりするかも……俺の事嫌いになるかも」
夜の仕事をまだ辞めていないことを咎められる気がして、怖かった。〝壊れないうちに戻ってきな〟そう言った亮平の言葉。あの時は、幻滅されたのだと思っていたけど、今は亮平なりの優しさだったのだと理解できた。
亮平💚「俺の愛を甘く見ないでね?それに——」
亮平はしがみ付く俺を引き剥がすと、俺のナース服姿を上から下まで眺めると、小さく笑った。
亮平💚「そのミニスカで毎日病院歩いてる子に、今さら何を驚けっていうの?」
翔太💙「やだ……見るな」
亮平の胸に体当たりすると、胸に顔を埋めた。ふわりと香る亮平の匂い。すっぽりと胸におさまって、亮平は白衣で俺の身体を覆った。
亮平💚「恥ずかしいところも、可愛いところも全部ひっくるめて翔太だから。皆んなから隠しちゃいたいくらい……翔太の事が大好きなんだ」
翔太💙「バカァ……」
亮平は何も急かさなかった。
翔太がぽつりぽつりと言葉を零すたび、ただ相槌を打ちながら静かに聞いている。
夕焼け色の風が二人の間を通り抜けていく。
夏の暑さに負けじと声を上げる蝉の鳴き声。ジリジリと汗ばむ額を拭いながら、やがて全てを聞き終えた亮平は、小さく息を吐いて、もう一度翔太の頭を撫でた。
亮平💚「……頑張ったね」
その一言は、責める言葉でも慰める言葉でもなかった。
ただ、ここまで歩いてきた俺を、そのまま受け止めるような声だった。
胸の奥で固く結ばれていた何かが、音もなくほどけていく。
亮平💚「偉かった」
翔太💙「……でも」
俯いたまま、自分の指先を見つめる。
翔太💙「急に辞めるなんて……すごく迷惑かけちゃった」
震える声だった。
亮平は少しだけ困ったように笑う。
亮平💚「翔太は最後まで、誰かのことばっかり考えるんだね」
翔太💙「だって……」
亮平💚「迷惑をかけたくないって思える翔太だから、みんな翔太を好きになるんだろうね」
少し間を置いて続ける。
亮平💚「でもね」
少しだけ目を細めて、亮平は笑った。
亮平💚「迷惑をかけたかどうかなんて、今はどうでもいい。俺が今、一番伝えたいのはね——」
ゆっくり顔を上げる。
亮平はまるで宝物を数えるみたいに、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
亮平💚「優しくて、人のことばかり考えるところも」
俺を見つめるその瞳が好きだった。
まるで「大丈夫だよ」と何度も語りかけてくれるような、優しい瞳。
その眼差しに見つめられるたび、凍りついていた心が少しずつ溶けていく。
亮平💚「自分より誰かを大切にしちゃうところも」
照れたように笑うその表情に、また涙が滲む。
亮平💚「泣き虫で、意地っ張りで、放っておけないところも」
そんなふうに一つひとつ数えられるたび、自分という人間を肯定してもらえている気がした。
亮平💚「恥ずかしがり屋で、すぐ無理して笑うところも」
言い終えると、亮平は照れ隠しをするように小さく笑って、そっと俺の肩を抱き寄せた。
苦しいくらい強い腕の中で、鼓動だけがやけに近い。
亮平💚「そんな翔太だから、好きなんだ」
翔太💙「顔見て言えよ」
亮平💚「……顔見たら照れちゃうじゃん」
肩をすくめて照れ笑いを浮かべる。
亮平💚「俺、詰めが甘いってよく言われるし」
亮平の長い指が俺の頰をそっと撫で、零れた涙を救った。
背後に沈む夕陽が、亮平の髪を優しく茜色に染めている。
亮平💚「ほっぺ真っ赤だよ?」
翔太💙「ちげぇーし。夕陽のせいだし……お前だって——」
〝夕陽のせいだろ?そういう事にしておこう〟そう言って笑った亮平は一歩だけ距離を縮める。
俺の額に、自分の額をそっと重ねた。
吐息が触れ合うほど近い距離で、亮平は微笑んだ。
亮平💚「翔太でいてくれて、ありがとう」
言葉は風に乗るように静かだった。
それなのに、どんな励ましの言葉よりも深く胸へ届く。
「ユキ」じゃなくていい。
誰かに合わせて笑わなくてもいい。
無理をして誰かにならなくてもいい。
――翔太でいてくれて、ありがとう。
その一言が、胸の奥深くまで静かに落ちていく。
言葉にならなかった。
「ごめんなさい」しか言えない俺に、亮平は「もう謝らなくていいよ」と笑って、もう一度頭を撫でてくれた。
その優しさが、張り詰めていた心をゆっくりとほどいていく。
屋上を後にした俺たちは、言葉少なに帰路についた。
夏の熱気をまとったまま静まり返る部屋の扉を開けると、玄関の明かりがふわりと灯った。
エアコンを消して出たはずの真夏の一室は、なぜかひんやりとした冷気が満ちていた。
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
張り詰めていた空気が少しだけほどける。
亮平に腕を引かれて玄関扉に押し付けられると、唇が重なった。応じるように少しだけ背伸びすると、大事に抱えるように添えられた亮平の腕は、優しく俺を抱き上げた。
翔太💙「……んっ亮平」
亮平💚「ごめん翔太……もう我慢できない」
その瞬間――。
リビングの方から、低い声が飛んできた。
蓮 🖤「俺もこれ以上は我慢ならない」
翔太💙「うわぁっ!?」
亮平💚「……なんでいるのよ?てっきり俺の部屋にいると思ったのに」
ソファに腰掛けたまま腕を組む蓮は、大きくため息をついた。
蓮 🖤「ふっ……いつも言うだろ?詰めが甘いんだよ」
亮平💚「またそれ?」
蓮🖤「お前は翔太を独り占めしたい時ほど周りが見えなくなる」
亮平💚「……否定できない」
翔太💙「あっそっか亮平のわんちゃんに会わせてくれるって……」
亮平💚「犬なんて飼ってないよ」
翔太💙「え?」
亮平💚「だって、俺には世界一可愛い忠犬がいるから」
そう言って亮平は、俺の頭を優しく撫でた。
翔太💙「……犬じゃないし」
頬を膨らませて睨む俺に、二人は顔を見合わせて笑った。
蓮🖤「否定が弱い」
亮平💚「お手」
翔太💙「しねぇーし」
そう言い返したはずなのに。
亮平が両腕を広げた、その瞬間だった。
翔太💙「……あっ」
身体は正直だ。
安心できる場所を見つけると、考えるより先に飛び込んでしまう。
気づけば俺は、亮平の胸へ飛び込んでいた。
亮平💚「ほらね」
蓮🖤「おい、危ないだろ。ブンブン尻尾振り回すな」
翔太💙「振ってない……違う尻尾なんてないから!」
二人の笑い声が部屋いっぱいに響く。
その笑い声につられるように、さっきまで胸を締めつけていた痛みも、少しずつほどけていった。
もう、無理して笑う必要なんてない。
俺は俺のままでいい。
この人たちの前では、格好悪くても、泣き虫でも、どんな俺でも。
――それでも「翔太でいてくれてありがとう」と笑ってくれる人がいる。
だから今日も。
俺は、俺のままでいい。
――“君でいること”を、もう怖がらなくていい。
蓮 🖤「ほら、早くおいで」
差し出されたその長い腕を、なんの躊躇いもなく触れた。引き寄せられて蓮の胸に収まると、当たり前みたいに亮平が俺の肩を抱いて三人で腰掛ける。
家族みたいに温かなその空間は、ようやく辿り着いた帰る場所だった。
亮平💚「やっぱり我が家は落ち着くなぁ」
翔太💙「……いや、ここ俺の部屋なんだけど」
蓮🖤「もうお前だけの部屋じゃない」
蓮の腕が伸びてきて、急に頰を撫でられ肩を竦めた。重なり合う視線に自然と寄せた唇が重なり合う。
翔太💙「……んっ」
亮平💚「この部屋、防音は優秀そうだね」
翔太💙「……何どう言うこと?」
不意に亮平が俺の耳元へ顔を寄せた。
亮平💚「真ん中部屋♡」
蓮と亮平の部屋に挟まれた翔太の部屋。〝お隣さんに迷惑かからないでしょ〟囁くような声に、耳まで熱くなる。速まる鼓動に抗うように胸に手を当てて短くふっと息を吐いた。クスッと笑った亮平はきっと全部お見通しなんだ。
亮平💚「好きがダダ漏れ」
翔太💙「違うし」
蓮 🖤「素直になれよ」
翔太のお腹の上で重なった亮平と蓮の手。構えるように胸の前で組まれていた手は力無くソファに降ろされた。
窓の向こうでは、夏がまだ終わることを拒むように熱を放っている。茹だるような熱気を孕んだ夜風が、網戸をかすかに揺らす。
それとは対照的に、部屋の中は静かな冷気に満たされていた。
火照った頰を撫でるその涼しさが、外の喧騒も、胸を締めつけていた不安も、閉じた扉の向こうへ置き去りにしてくれるようだった。
肌と肌が触れ合い、自然と溢れた笑顔に、亮平と蓮も目尻を下げた。
閉じた扉の向こうでは、三人だけの時間が、誰にも邪魔されることなく流れていく。——長い夏の夜は、まだ始まったばかりだった。
コメント
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3人のバランス感がすーごくよくなってる!これからがますます楽しみ🖤💚💙
亮平、最後の「翔太でいてくれてありがとう」って言葉、本当に沁みましたね……。ずっと誰かに合わせて生きてきた翔太が、やっと自分のままでいいって思える場所を見つけたんだなって思うと、胸が熱くなりました。あと、蓮の「俺もこれ以上は我慢ならない」からの流れ、亮平の詰めの甘さに笑っちゃいました(笑)。でも、最後に三人でいる空間が「帰る場所」になってるのが、本当に幸せそうでよかったです。花凜さんの描く優しさがぎゅっと詰まったエピソード、素敵でした🌷
#佐久間担
yuka🌃🪽💎@猫化中
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