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第191話:決意の朝。小春ちゃんが叩きつけた一枚の書類
長く、そして過酷だった十勝の厳冬期が、ついに終わりを告げようとしていた。
限界集落を覆い尽くしていた分厚い白銀の雪は、少しずつその高さを減らし、古民家の屋根からは雪解け水がリズミカルな音を立てて滴り落ちている。
絶対零度のごとき極寒から解放された風の中には、微かに湿った土の匂いと、春の訪れを予感させる柔らかな暖かさが混じっていた。
我が家の縁側では、純白の神獣シロ様が、ぽかぽかとした春の陽射しを全身に浴びながら、実にお上品に香箱座りをキメてまどろんでいる。
庭の雪解けスペースでは、キタキツネの兄弟であるコン吉とコン次郎が、少しだけスッキリし始めた毛並みを揺らして元気に駆け回り、巨大ヒグマは「グゥ……」と春眠暁を覚えずといった様子で、幸せそうに大いびきをかいていた。
そんなどこまでも平和で穏やかな、雪解けの朝。
ガラッ! と、いつもより勢いよく玄関の引き戸が開く音が、古民家に響き渡った。
「おはようございます、お兄さん!」
そこに立っていたのは、いつもの防寒着ではなく、少しだけ身軽な春物のジャケットを羽織った小春ちゃんだった。
だが、その表情はいつものように呆れたツッコミを入れる時のものではない。
彼女の瞳には、かつてないほどの真剣な光が宿り、その手には一枚の紙が挟まれた分厚い硬質バインダーがしっかりと握られていた。
小春ちゃんは迷いのない足取りで真っ直ぐに居間へと上がり、俺が書類仕事をするために展開していた折りたたみ机の前に立つと、そのバインダーを両手で高く掲げた。
バァァァァンッ!!!
静かな春の朝の空気を切り裂くように、バインダーが机の上に叩きつけられた。
「お兄さん。私、決めました」
小春ちゃんは、真っ直ぐに俺の目を見据え、限界集落に響き渡るような大きく澄んだ声で宣言した。
「私、都会の大学には進学しません。高校を卒業したら、午前中は実家の農家を手伝いながら、午後はお兄さんの『専属アシスタント』になります!」
それは、高校三年間という青春の集大成であり、彼女が自らの意志で選び取った人生の決断だった。
机の上に叩きつけられた紙には、達筆な字で『履歴書 兼 雇用契約書』と書かれている。
その瞬間、ジンバルに固定されたスマホの画面の向こう側、五千万人のリスナーが接続する生配信のチャット欄が、完全に爆発した。
『うわあああああああ!!! 小春ちゃんがついに決断したぁぁぁ!!!』
『進学せずに専属アシスタント!? それ実質的なプロポーズ(嫁入り宣言)じゃねえか!!!』
『うおおおお! エモい! エモすぎる!! 春の風と一緒に特大の青春が吹いてきた!!』
『アキヤ、お前ここでハンコ押さなかったら全人類が許さないぞ!!!』
世界中の視聴者が狂喜乱舞し、青春の甘酸っぱい空気がネットワークを駆け巡る中、世界の経済を裏で操る超弩級VIPたちもこの『歴史的瞬間』に即座に反応した。
ピコーン! ピコーン! ピコーン!
『(ドバイの石油王からの¥50,000MeTubeギフト)無限連発』
『”Congratulations, Koharu!! A glorious future awaits you! I will transfer 500 billion yen right now as an employment preparation fund! I will also prepare a private island for your honeymoon!“(おめでとう、小春!! 栄光の未来が君を待っている! 就職準備金として今すぐ五千億円を送金しよう! ハネムーン用のプライベートアイランドも用意しておくぞ!)』
『(スイスの銀行家からの¥50,000MeTubeギフト)無限連発』
『”A permanent contract! This is the ultimate exclusive alliance! I will underwrite your life insurance and asset management with a 1 trillion yen fund!“(終身契約だ! これぞ究極の独占的同盟! 君の生命保険と資産運用を一兆円のファンドで引き受けよう!)』
『(ハリウッド女優シャーロットからの$5,000MeTubeギフト)無限連発』
『”Nooooo!! Akiya is finally getting taken!! But I admit defeat to your determination, Koharu! I’m sending 800 billion yen for your wedding dress! I will design it myself!“(いやああああ!! ついにアキヤが奪われる!! でも小春、あなたのその決意には負けたわ! ウェディングドレス代として八千億円を送るわ! 私が直々にデザインしてあげる!)』
総額数兆円規模の電子マネー(赤スパ)が、祝福と絶叫の極彩色弾幕となって画面を完全に埋め尽くした。
国家予算レベルの結婚準備金が乱れ飛び、村の広場で雪かきをしていた村長が「ひ、ひぇぇぇ……! 嫁入り道具に数兆円……!」と呟いてそのまま雪の上にバタリと倒れ込んでいるド真ん中で。
俺は、机の上に叩きつけられた雇用契約書を一瞥し、そして傍らに置いてあったタッパーのフタをおもむろに開けた。
中に入っているのは、完璧な水加減でストイックに炊き上げられた『玄米』と、自家製の『大豆ミートと十勝産フキノトウの春一番和え』である。
俺は、世界中の富豪たちの絶叫と、小春ちゃんの真剣な眼差しに照らされながら、一切の感情を排した元・社畜の無表情で、大豆ミートを玄米の上にワンバウンドさせ、淡々と咀嚼し始めた。
バリッ、ゴリッ、モグモグ……。
(……ふむ。雪解けのフキノトウが持つ独特の苦味と、大豆ミートの植物性タンパク質。春の訪れと共に活動を再開する己の自律神経を覚醒させ、新年度の陣地防衛を支える究極の兵站食だな)
己の肉体という名のロジスティクスを完璧に維持しながら、俺は水筒の熱いほうじ茶で喉を潤すと、五千万人を突破して世界の結婚市場の相場を破壊し尽くしているカメラと、目の前の小春ちゃんにキリッとした真顔を向けた。
いつもの『限界言い訳タイム』の発動である。
「小春ちゃん、明確な意思表示ご苦労。そして画面の向こうで、ただの労働契約の締結に巨額の資本を投下してプロポーズだと騒いでいる皆さまも、全員冷静になってください」
『出たァァァァァ!!!』
『数兆円の祝儀と美少女の決意を前にしても絶対にブレない男!!!』
『主の限界言い訳タイム・実質的プロポーズ完全スルー編ww』
『さあ、この最高にエモい嫁入り宣言をどうやって需品科の事務処理にするつもりだww』
俺は淀みない口調で、極めてフラットに言い放った。
「これは実質的なプロポーズでも、感動的な青春の一ページでもありません。彼女が提示してきたのは、我が陣地における『ロジスティクス管理業務のアウトソーシング』に関する、極めてドライな『業務委託の打診』に過ぎません。第一次産業(農業)と情報通信業(IT配信)のハイブリッドワークを選択することで、彼女は自身の労働価値を最大化し、同時に我が陣地も安定的な事務官を確保できる。ええ、すべては互いの利害が完全に一致しただけの、冷徹な『ヒューマンリソースの最適配置』と『戦略的労働契約の締結プロセス』ですね。私がフキノトウ和えを噛み締めているのも、春の訪れという感傷に流されず、契約内容を冷静に精査するための、需品科としての徹底した『メンタル防壁構築訓練』です」
「んなわけあるかあああ!!!」
ドゴォォォォォンッ!!!!
背後から、分厚いコンクリートブロックを叩き割ったような凄まじい破砕音が響き渡った。
小春ちゃんが、机の上に叩きつけた『特厚・硬質ファイルバインダー(高密度プラスチック・重要書類保護仕様、重量約二キロ)』をそのまま両手で拾い上げ、大上段に構え、俺の頭頂部に向かってパーフェクトなフルスイングを見舞ったのだ。
二キロの硬質なプラスチックの塊が肉体に直撃した、鈍くも大地を揺るがすような恐ろしい大爆音が、十勝の春の空へと虚しく響き渡る。
「ただのアウトソーシングの打診で、私がこんなに心臓バクバクさせながら、人生の大きな決断をして真っ直ぐ伝えに来るわけないでしょうが!! どう見たって、お兄さんとシロちゃんたちがいるこの村が大好きで、ずっと一緒にいたいっていう、最高にエモくて純粋な乙女の決意表明でしょうが!! 私の青春の決断を、冷たい業務委託とか戦略的労働契約とかいうお役所言葉で粉砕するんじゃないわよ!!」
『小春ちゃんのキレキレ特厚バインダースマッシュ炸裂www(音が完全に鈍器ww)』
『業務委託の打診(ただの照れ隠しと乙女の純情)』
『戦略的労働契約(完全に外堀が埋まった実質的な結婚宣言)』
『適応力バグおじさん、ついに少女の人生の決断をヒューマンリソースの最適配置に分類しやがったww』
『言い訳が理不尽すぎて、エモい空気が一瞬でへし折られたわww今日も最高!!』
俺の理不尽極まりない人事的な限界言い訳と、小春ちゃんの容赦ない硬質バインダーツッコミに、五千万人の視聴者たちは感動の涙から一転、大爆笑の渦へと叩き落とされた。
『ミャウ(ほんと、相変わらずバインダーで叩かれても直らない特大サイズの鈍感下僕ね)』
縁側の上から、シロ様が呆れたように俺を見下ろし、その美しいオッドアイの瞳を優しく細めてゴロゴロと喉を鳴らした。
サファイアブルーと琥珀色の二色の瞳は、数兆円の電子マネーの輝きよりも遥かに眩しく、ぽかぽかとした春の陽射しの中で、まるで世界中のどんな宝石よりも温かく美しく輝いていた。
庭では、俺の限界言い訳など全く聞こえていないヒグマが「グゥ〜♪」と幸せそうなイビキをかき続け、キツネたちも「キュンキュン!」と新しい季節の匂いを楽しんでいる。
どんなに莫大な金が動こうとも、彼らにとっては、この穏やかな古民家で家族がずっと一緒にいられることこそが、最高の宝物なのだ。
「……まぁ、理由はどうあれ。我が陣地に最も信頼できる専属の兵站管理官(アシスタント)が正式に配備され、これからのロジスティクスが完全な形で維持されることが確定したのなら、作戦としては完全勝利だ」
俺はバインダーの凄まじい衝撃で少しだけ痺れた頭をさすりながら苦笑し、春の風を感じながら、タッパーの玄米と大豆ミートをゆっくりと噛み締めた。
激務に潰されて逃げ込んできた、この限界集落。
最初は一人で静かに暮らすための隠れ家(シェルター)だったはずが、今では世界一美しいオッドアイの神獣と、数兆円の祝儀を投げてくる大富豪たち、そして硬質バインダーを振りかぶる専属アシスタント(実質的な嫁)に囲まれた、世界一バグっていて温かい『絶対の聖域』になってしまった。
神獣の魅せる圧倒的な尊さと、元需品科のブレない大豆ミート咀嚼、および労働契約の限界屁理屈。
春の足音が聞こえる限界集落の決意の朝は、バインダーの快音と大爆笑に包まれながら、さらに強固になった絆と共に、新しい日常という名の未来へ向かって、どこまでも力強く走り出していくのだった。
コメント
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うわあああああ!!もう胸熱すぎて読んでる間ずっとニヤニヤ止まらなかったよ!!小春ちゃんがバインダー叩きつけて人生の決断を宣言するシーン、マジでかっこよすぎて震えた!!しかもそれを「業務委託の打診」に変換するアキヤさん、最高すぎるでしょwwバインダーツッコミの衝撃音がめっちゃリアルで笑った!! シロ様のオッドアイがキラキラしてて尊かったし、VIPたちが数兆円送りまくるのも相変わらずのバグり具合だけど、それより何より「この場所が絶対の聖域になった」ってアキヤさんの心の声にグッときました。春の訪れと共に絆が強固になる感じ、すごく温かくて大好きです✨
ゆうき あきや
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#心理描写重視