第三章 桔梗
青城烈 夜長
父と清羅の母親の不貞関係が発覚してから一ヶ月。
やっと俺は住処を見つけられた。
「烈くん、久しぶりだな。いつも清羅と仲良くしていてくれて感謝するよ。」
何年振りか分からない信頼の薄さ。
清羅の父親は一瞬にして、俺を部外者扱いするような目で上から下へ視線を送る。
表面上だけ重い嘘で塗り固めた清羅と瓜二つで、ゾワゾワした。
「こちらこそ、おじさんの家に同居させてもらってとても感謝しています。」
「全然大丈夫さ。ほら、四人とも挨拶なさい。」
清羅の妹、弟達の肩に手を置いた。
祝賀会などで会うことはあっても、直接話すような機会は無かった。
だからこそ、余計に気まずい空気が流れる。
「烈さん、お久しぶりです。」
お久しぶりですと一斉に声を合わせて、頭を下げた。
考えてみれば、柏柳家とは清羅以外の子供達や大人達と関わったことすら無かった。
俺の親も清羅ちゃんとは関わりなさいと言うが、柏柳家と関われとは言わなかった。
お互いに敵視しているという事実に目を背けてしまっていたのだ。
「あぁ。」
「お姉様から話は事前に聞いていました。烈さんの家は没落寸前なのですよね。」
次女は何かと俺に嫌悪感を抱いている。
わざと突っかかって、傷んだ心を癒してもらいに清羅を使う。
彼女に心酔しているのだろう、彼らは。
「…それに近い。」
「そうですか。仲良くしましょう、烈さん。よろしくお願いしますね。」
手を出した。
握手をしろと言うように強く睨んだ。
ゆっくりと手を握ると敵対心を露わに力を込められて、ブルブルと震える。
階段を登っていく彼らが見下しているようで、胸が押さえつけられた。
「烈、私からもよろしくね。」
横にいる清羅が発する。
「うん。」
「清羅、こんな庶民を気にかけなくていいのよ。あ、そうだ。もういっそ烈くんの部屋は倉庫でいいんじゃないかしら。」
つい一ヶ月前までは俺によく話しかけていたくせに、庶民へと成り下がってからは下に見る。
本当に無責任という言葉がよく似合う女だとつくづく思う。
「お母様、元はと言えばお母様が ──。」
「貴方は黙りなさい。またやられたいのかしら。」
何となく察した。
清羅の表情は俺と照らし合わせることが出来るほど似ている。
親の呪縛はいつまでも解けないもので、誰かのように何かを犠牲にしなければ解けない。
清羅は俺に似ている。
「あながち清羅の言うことは間違ってなさそうだが。こんなことになったのは君のせいでもあるんだ。君が口出ししていい立場では無い。」
呆れたように清羅の父親は煙草を吸った。
「私は旦那様が私を愛してくれないのが問題な気がしますわ。愛していたら学さんになど目もくれていなかった。」
頼むから喧嘩は子供達の前ではしないで欲しい。
清羅の手を引いて俺の部屋へと入った。
冬に差し掛かる季節だというのに、まともに暖房もついていない部屋で毛布に包まった。
ここにはもう俺のモノは無くて、柏柳家の私物のような物ばかりが置かれている。
古びれた数年前のブランド時計、幼少期に使われたであろう糸がほつれた縫いぐるみ、山積みに置かれる参考書。
陽の光も暖かくはないし、少しの異臭はするし、まともに生活出来ない。
この部屋だけに囚われているようだった。
あの家に自然と適応していた身体は堪える。
「ごめんなさい、こんな汚い部屋で。」
先に口を出したのは清羅の方だった。
「別に。一週間もすれば自然と適応していくだろ。」
「それはわからないじゃない。少なくとも数日間は息を詰まらせる生活になる。」
「そのくらい耐えられる。あの家に住んでた時の方が息苦しい。」
握られた手は徐々に冷たくなっていく。
俺と清羅の冷めた関係のように。
「大人になったら抜け出してしまえばいいの。そうしたらその辛さからも解放される。」
それは本当なのかと問いたかった。
現に親からの呪縛を解こうと一人暮らしや自立した行動をしたとしても、結局絡まったまま禁忌を犯してしまう。
それが凶悪殺人なのだ。
物理的にいなくなったとしても、呪縛は浮いたまま繋がれるもので、叶うとは限らない。
清羅は何も分かっていない。
でもそのままでいい。
それが清羅であり、俺が熱望する彼女の姿になるから。
「抜け出せたら俺と二人で…..」
「ごめん、ただの戯言。」
沈黙から逃れるように視線を逸らした。
「二人で暮らせたら良いね。」
「えっ….」
「私には、烈しかいないから。烈には友達がいるかもしれないけど私にはそういう人いないの。情けないって思わないでね。」
幼児のように寂しさに酔った。
「ごめん。」
「なんで謝るの?烈は悪いことしてないじゃない。」
「分からない。」
分からなくはなかった。
思い当たる節くらいは薄々残っている。
父の口癖で巧みに操られて自ずとつけられる謝罪。
──ごめんって言うけど、それは本当に謝ろうと思って謝っていないでしょう。
──そういうの嘘つきって言うのよ。
清羅も心奥に隠さずに吐露するのだろうか。
でも隠さないと俺は俺でいられなくなる。
「…..悪いのは全部あの人達なのに。」
小さく呟いた。
俺もそれには激しく同意する。
「ねぇ、烈、絶対抜け出しましょう。あの人達から。」
握る手を胸元へと近づけた。
「そうだな。」
とりあえずで返事をした。
この先、よからぬことが起こって俺が禁忌を犯す可能性もあるのだから意気揚々に言えなかった。
胸元に近づけた手を降ろし、俺たちは初めてのキスを交わした。
清羅の唇は薄く、少しだけ乾いていた。
でも何かが足りない。
好きな女とのスキンシップなのに何かが ──。
清羅は、俺の口の横についたリップの跡を指で馴染ませた。
「もう後戻りは出来ないね。」
「うん。」
冷たい目で見つめる清羅の瞳に俺は映っていなかった。
好意ではなく、寂しさを埋める精神安定剤のような存在を見つけたのだろう。
なら、俺はなんだ。
俺は清羅の事を純粋に好きなのか。
もしくは歪んだ得体の知れない感情なのだろうか。
胸が濁るようにざわついた。
「本当は満足してないでしょう。烈。」
見透かされた。
絶望の淵へと立たされた。
「…..いいや、してるよ。」
「嘘を創ったことくらい知ってる。貴方は私と同じだから。」
「清羅の思い込みに過ぎない。俺たち何年間共に過ごしてきたと思ってるんだ。」
「そんなの関係ある?」
「十五年間も過ごしてきたらそんなの思い込みだって気付くだろ。」
思い込み、思い込み、思い込み。
「違うよ。烈は嘘をつくとき、瞳が揺れてるの。」
「そんなこと誰だって….」
「人一倍だよ。私には嘘をついてほしくないの。」
「…..なるべくな。」
なるべくの基準を測れない。
少しなのか、最低限なのか。
「えぇ、それでいいの。」
結局、君は俺と同じだろと言いたい。
不愉快の目で見ているのに、優しさを嘆いて張り詰めた言葉の羅列。
これからも清羅だけには嘘をつき続けるしか無い。
彼女は俺を必要としてくれる。
「あ、そういえば、夜、一緒にディナー食べに行くの?お父様は気まずいだろうから別でディナーを用意しようかと思ってるらしいの。」
密かに落胆した。
清羅の父は案外と常識人だと勝手に思い込んでいたが、それは見当違いだったようだ。
奥底では仲間はずれみたく邪魔に思っているのだろう。
「それでいい。見ず知らずの子供が家族団欒の場に入ったら失礼だろ。」
「烈がそう言うなら、そうやって伝えておくよ。でも別のディナーを召し上がる時に私もいるから。」
清羅なりに罪悪感を抱えている。
不愉快だと思っていても、気を使うことくらいは許容範囲の内だ。
許容される人間と思われているなら、それだけで救われる。
「そこまでしなくて良い。」
「….分かった。」
失望したように部屋から出て行った。
これで良いのだと自分に言い聞かせた。
だが思うように上手くいかない。
順風満帆な人生に亀裂が入り込むように、心臓の一部にも傷が入り込む。
ストレスから緩和されるように煙草を取り出し、一人で咥えて吸った。
久しぶりに父の実家ヘと足を運んだ。
何年振りかは曖昧だが、軽く十年は過ぎていると思う。
大きな門の横にあるチャイムを押した。
すぐにドアは開き、中に入ると数年前と変わらない光景が広がっていた。
認知症を患っている祖母は窓に落書きをするように計算式を書いている。
どれも簡単なものであるが、回答は書かれていない。
あくまで計算式のみ。
こちらには気付かずに書き続ける祖母の肩に家政婦はトントンと叩いた。
「紗栄子様、烈様がお見えです。」
「烈….?」
「お祖母様、お久しぶりです。」
こちらへと振り返ると、思い出したように抱きついた。
「あぁ、烈….!何年振りかしら。」
まだ俺を忘れていない事実に安堵した。
「十年は経っていると思います。」
「そうよねぇ。学がしでかしてしまってごめんなさいね。でも分かってあげてくれる?あの子はあの女に騙されたのよ。」
父は祖母によく似ている。
都合の悪いことは責任転嫁をして水の泡に変えてしまうところ。
祖母の言う騙されたは、父から誑かしたも同然なほどに嘘偽りなのだ。
祖母は何かと自分よりも優れている人を嫌う。
息子である父はそこまで優れておらず、起業家として暮らしていけたのも母の助言があってこそらしい。
「そうなんですね。」
「昭恵さんもでしゃばらなければ離婚することも無かったのよ。女としての魅力をもって、浮き立たなければあの子から好かれたのに。烈はそうではないでしょう?だから私も好いているのよ。」
自分を際立たせない装飾品だからな…
父と祖母で俺に求める条件が違うので、いつも疲弊している。
優れてしまえば祖母からは軽蔑され、劣れば父から虐待される。
「あぁ、そうだ。烈、机にある和菓子食べる?清羅ちゃんにも持っていてあげてね。」
「いいんですか。ありがとうございます。」
「いいのよ。清羅ちゃんは見ていて気分が良いし、烈もお利口だから。」
「有り難く頂きます。」
結局自分より優れている人間でも、腸が焼ける人間と焼けない人間の区別がつく。
優れているから嫌いという単純な理由で誰かを嫌っているのは、ただの妬みなのだ。
机にある和菓子を丁寧に開け、一口で食べた。
あまり味がしない。
金平糖なのだから砂糖が舌へと感じさせるはずなのに。
一つ、二つと食べても変化は無い。
「それ、隣人の方からいただいたのよ。凄く甘くてお勧めらしくて。」
俺は耳を疑った。
これが甘い…?
とりあえずで確かに甘くて美味しいですねと返したが、本音を言えば不味いに等しい。
いや、味を感じないから不味いと捉えているだけなのか ──?
頭が混乱する。
そう言えば、ここ最近柏柳家で出されるご飯が透明で変なものを喉で通しているかのように、食べた心地がしなかった。
嫌がらせだろうと黙認していたが、祖母が唯一可愛がる孫に嫌がらせをするわけがない。
「お祖母様。やっぱりこれ、味がしないです。」
怒られるかと心臓の鼓動が早まる。
「え?そんなことはないはずだけれど…..少し私もいただくわね。」
一口食べてもそうかしらと首を傾げただけだった。
「烈、一度病院へ受診したほうがいいんじゃないかしら。」
「….そうですよね。」
それはきっと出来ない。
あの家族が俺に素直に行けと言うはずもない。
俺は生きる為にここまで乗り越えなければならないのか。
あぁ、清羅が羨ましい。
そこだけは彼女を羨ましく思ってしまうのも、また大人達と同じだと分かっているのに。
こんな俺を軽蔑しないでくれ。
そう願うしか出来なかった。
柏柳清羅 夜長
彼は虐めを受けるようになった。
來夢が同級生に烈が私の家で居候を始めたと話題を出したことによって、私の学年でも噂が広まった。
──不倫した男の息子と幼馴染だなんて清羅さんも可哀想ね。
何回も聞いた言葉。
可哀想という言葉の裏に自業自得の四文字が入っているような気がした。
烈は男子生徒から給食の牛乳パックを背中に投げつけられたり、提出物を階段下のゴミ箱に投げ捨てられた。
「逆らってんじゃねぇよ。庶民が。」
「今までは起業家の息子だから我慢してきたけど、その態度が腹立ってたんだよ。」
烈を虐めるのはいつも親しく接していたはずの友人たち。
その中には友情の言葉は無かったのだろう。
親しくなって損をした後悔で、烈の身体を痛めつける。
痛い、やめてなどの弱音は吐かなかった。
己を認めたくなくて反抗心を露わにすることを言わなかったのだ。
「庶民に成り下がったんだから庶民らしく頭でも下げてろよ!」
「お前なんか死んじゃえよ。」
「清羅さんがお前を守ると思ってんじゃねぇよ。」
男子生徒が頭を鷲掴みにし、壁へと顔を強く当てた。
何回も当てていくうちに壁は血まみれとなって、男子生徒たちの血の気が引いていくのが見えた。
──そうなるなら、最初からやらなければいいのに。
「さすがにやばくね?」
罪を背負いたくない彼らは立ち去ってしまった。
烈にハンカチを渡しても受け取らなかった。
力尽きているのがわかった後、私は病院へと連れて行った。
患者がその顔を見て二度見する。
看護師さえも烈の状態を深刻にみて、他の患者よりも治療を早めた。
度が過ぎたなと思う。
不愉快な相手が誰に何をされようと興味すら抱かなかったが、烈だけは少しだけ同情がわく。
時間が遅く感じる。
チクチクと針がなるのと同時に、自分の心までもが針で刺されていく。
痛いと言うより苦しいという感じだ。
私の手には僅かな血がついている。
お手洗いを済ませた後、椅子に座ると医師がドアから出てきた。
「事態が深刻なようなので、数日間入院なさった方がよろしいかと。」
「そう、ですか。」
後悔が滲む。
あの時助けてあげれば、こんな事にはならなかった。
止める勇気など無かった。
自分はなんて愚かなのだろう。
「ご両親はどちらへ?」
「まだ札幌にいると連絡が来ています。」
わかりましたと呆れた顔で医師は通り過ぎる。
何をやっているんだ、両親はと言いたげな顔が鮮明に残った。
家へ帰ると、珍しく家族全員がリビングで夕食を食べていた。
いつもは誰か一人は欠け、自分の部屋で食べると言いたがる。
「清羅。烈くん、病院で入院するのですってね。」
「はい、そうみたいです。」
俯く母の口元が緩んでいるのが見える。
母にとっては敵の女の息子でしかないのだろう。
「ほら、早く席につきなさい。久しぶりの家族団欒の場よ。」
従うように席に座り、夕食を食べた。
「清羅はまた月末試験で一位をとったのでしょう。凄いわね。」
機嫌が良いのはこれか。
憂鬱のあまり食事が喉に通らなかった。
どうせまた私だけを褒め称えて、他の姉弟は褒めないに決まってる。
それが味を感じさせない原因となった。
「お母様、お父様、私も月末試験で一位になったのですよ。」
「えっ、來夢も?」
「はい!前回、試験で一位になったら自由に外出していいと仰っていましたよね。許可していただきたいです。」
「….そうね。考えておくわ。」
仕方ないという顔でワインを飲んだ。
「お、俺も学年十位以内に入りました….お姉様達とは出来の良さが違いますが….」
「あら、勉強嫌いの睦生もそこまで出来たのね。それで、姫衣菜と直大は?期待した結果になっているのでしょうね。」
俯くばかりの二人を、失望したような目つきで見下ろした。
母にとって、姫衣菜と直大の二人は評価の対象にすら入らない。
睦生以上の出来損ないに過ぎないから。
二人の目には、湖のような涙が薄く出ていた。
「お母様、どうせこの二人は変わらないですよ。お姉様や私と睦生と違って私立中学じゃないですもん。」
「本当、出来損ないは何をしても出来ないわね。こんなことなら産まなければ良かったわ。」
ガタンッと大きな音がリビング内に響いた。
耳を塞ぎたくなるような叫喚と心臓を貫く毒牙のようなナイフ。
床には食器やら料理やらが落ちている。
彼らの中で我慢の境界線を跨いでしまったのだろう。
「そうやっていつも姉さんたちばっかり贔屓して….自分の子なのだから平等に扱ってください。扱ってくれない場合はこの家から出ていきます。」
直大は足音を立てながら部屋へと戻ってしまった。
それを追いかけるように姫衣菜も階段を登った。
まるで関心がないようにまた食事をする母は、本当に無関心なのだと怖気付く。
粗大ゴミのように利用したら捨てるを繰り返す。
子供は自分の得をつくってくれる道具でしかない。
承認欲求もまた、満たされていくのだ。
昔からこのようなことは幾度となく繰り返されてはいたが、母と烈の父親の不貞関係が発覚した時からそれは頻繁に起こるようになった気がする。
以前までは一ヶ月に一回程度だったのが今では一週間に一回に増量された。
それだけ機嫌が悪いことが多かったと察せる。
私も彼らのように逃げ出したい。
「育て方を間違ったのかしらね。五人とも同じように育てたはずなのに。」
「お母様、あの二人のことなんて気にしないでください。そうだ、今度、家族五人で旅行にでも行きませんか?」
「旅行?」
「はい、サントリーニ島なんていかがでしょう?」
「あら、いいわね。旦那様も私も息抜きになるし。五人でちょうどいいホテル探すわね。」
もうあの二人は家族の枠に入っていない。
今更何を言っても無駄な気がする。
「やったー、ありがとうございます。お母様。」
食事が喉が通らない。
美味しくも、不味くも感じられない。
一旦フォークを起き、ドリンクで喉を潤す。
そして誰かがナイフを落とした。
病室のドアを開けた。
個室の中に一人空を見つめる彼がいた。
「烈。」
名前を呼ぶと、虚ろな目でこちらを振り向いた。
「清羅?」
その声はいつもの逞しい声ではなくて、どこか掠れている苦味のある声だった。
「ごめんなさい、こんな姿になるまで助けられなくて。」
烈の顔には包帯が巻かれ、まともに瞳を見つめることが出来なかった。
「悪いのはあいつらだろ。お前は悪くない。」
「見てみぬふりをしなければ貴方は包帯なんて巻かれることが無かったし、病院にいることはなかったんだよ。」
「だからって清羅だけが悪いとは言えないから。」
「確かに、そうだね。」
罪悪感でいっぱいだった。
不愉快のはずなのに烈を求めてしまう。
今となっては、そこまでの気持ちには至らないのだと思う。
「….全教科、烈のも板書して持ってきたから。」
ノートを渡すと、嬉しそうに一ページ一ページ開いた。
「ありがと。」
朗らかに笑う烈を久しく見た。
驚いて呆然としていると少しの涙が浮かんだ。
「ずっと清羅に会いたいって思ってた。」
「えっ…」
「会いたかった。どうしようもなくお前が好きだった。」
突然の告白に蟠りが徐々に閉じていく。
嬉しいとか、困るよりも不安が大きい。
親から解放されないで烈とお付き合いをしても、まだ親に囚われたままだ。
「ごめんなさい。」
「いい、謝らなくて。」
自然と涙がこぼれ出た。
痛くて痛くて仕方ないのだ。
無下にしてしまえば私は壊れていくと運命は定められている。
だがそれでも烈とはこの関係を保ちたい。
「あっ….待って、これ。」
烈が持つノートを見ると、また落書きがされていた。
結局私が誰かに忠告したところで、また誰かから過度な虐めを受けるだけ。
最近でも沢尻くんに代わって私が理不尽に扱われている。
階段からごみ箱の中のごみを浴びせられたり、空き教室で母にされたことと同じようなことをされて。
私たちの心は限界だった。
「そのページは破くね。ごめんね。」
無理やり烈の手からノートをとり、ビリビリにページを破いた。
落ちたゴミを拾ってゴミ箱に捨てる。
意識が朦朧とした。
心臓も胃も、肺も痛い。
もう耐えきれない。
音が病室内に響いた。
痛い。
痛い。
痛くて辛い。
──烈。
「清羅!」
視界に映るのは赤黒く染まった液体。
「大丈夫だから、医者は呼ばないで。」
息が途切れそうだ。
反芻する幼少期の記憶が脳裏に渦巻く。
「お願い….」
━━またこれ?
━━ごめんなさい、お母様。
烈のコールに伸ばす手が戻され、ゆっくりと私の元へと近づく。
「ごめん….」
頬に伝る涙が小雨のように静かに垂れて、流れるようにキスをする。
血が舌へと滲むのが烈の暖かさに変わる。
私を抱き締め、涙を服に滲ませた。
嗚咽も出さずに涙ぐむ私たちはいつまでも哀しい。
どうしてこんなにも辛くさせてしまうのだ。
「痛い、痛い….烈。」
「一人にさせてごめん。退院したら俺と二人で生きよう。」
「うん….」
私には烈しかいなかったのかもしれない。
それだけが唯一でそれだけが全てだった。
「烈と永遠を共に….したい。」
「俺も。」
恋人ではないのに恋人のような言葉を囁きあって満たされる。
恋人というよりもお互いが精神安定剤のようだ。
首筋に触る彼の手や耳の裏から聞こえてくる吐息、一直線に見つめ合う瞳。
やっと見れた。
何回もキスをして、やがて私たちは幼馴染という一線を越えた。
馴染んできた行為で互いを愛し合う。
それが何よりも痛かった。
「もう行かないと。烈、さっきのはありがとう。」
「俺こそ。」
「じゃあ、また来週。」
握っていた手を優しく離し、病室から出た。
私の執行猶予までの時間が終わって、それは下される。
烈の抱きしめられる行為を上書きするように目の前の人物が抱きしめた。
「ねぇ、貴方、烈くんとなにがあったの?」
「何もないです。」
「嘘をつかないでくれるかしら。面倒くさいのよ。そういうの。」
母の、頭を支える手が強くなっていく。
やがて髪の毛までもを掴み、一本の髪の毛を抜き取った。
これで何本目なのだろう。
「ごめんなさい、お母様。」
謝るとそれに堪えたのか、廊下で平手打ちをした。
清閑たる場所で虐待されたことに、他の患者たちは引き目をとる。
やっぱり彼らは救ってくれない。
「謝ってくれるならいいのよ。今度からあんな下賎な庶民とは会わないで。分かった?私の愛する清羅。」
「はい、分かりました。お母様。」
無理やり口角をあげて笑みをつくった。
さっきのと同じ症状が起きそうだったが、唇を噛んで我慢した。
「さぁ、ほら早く帰りましょう。」
流されるがまま母に着いて行った。
彼女の背中はいつも完璧な真っ直ぐに保たれていて、私もそれを叩き込まれた。
今思えば彼女がいることで私はストレスになっていた。
「今日の夕飯はなにが食べたい?」
「うーん….」
考えるフリをする。
本当は食欲が無いとは言えない。
母の機嫌を損なわせずにはいられない。
「久しぶりにお母様の手料理が食べたいです。」
「あら、そう?貴方の為なら喜んで作ってあげるわ。何がいいかしら。」
「ポトフが良いです。」
「そんなの何年ぶりかしらね。あまり美味しく作れないかもしれないけれど….」
「大丈夫です。お母様の手料理だったら何でも美味しいですわ。」
「清羅ったら、今日は甘えてくるのね?」
「甘えてもいいではないですか。」
「そうね。今日は機嫌が良いから好きなだけ甘えなさい。」
「分かりました。」
あくまで仲睦まじく…
視線を感じ、振り返ると患者が立っていた。
愛するべき者、愛さないべき者。
では私はあの患者を愛するべきなのだろうか。
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子どもが可哀想すぎる...なぜこんなに2人は幸せになれないのかがとても悲しい。どうあがいてもこのままハッピーエンドとはならないんだろうね。(;_;)
(T_T)