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フェーデの寝室に運ばれてきたのは、小さな小鉢だった。スプーンも添えられている。
「これは、お豆?」
ベッドの上から興味深そうに見つめるフェーデにアベルが答える。
「青豆のスプレッドだ」
茹でた青豆を砕き和えたものを、アベルが練り混ぜていく。混ぜる右手に青白い光が僅かに灯っていた。
粘りの出た青豆のペーストがゆっくりと凍り付き、ジェラートのように固まった。
「はい、あーん」
口元に運ばれた青豆に少し躊躇う。
ちょっと恥ずかしいけれど、いつまでも待たせるわけにはいかない。
フェーデは観念して口を開いた。
「……ん、甘い」
豆とはこんなにも甘いものだったか。
冷たく歯ごたえのあるそれはほとんど氷菓で、楽しくも滋養がありそうな味だった。
「美味しい……」
熱にうなされていたフェーデの身体を優しく冷やしてくれる。
「最近、南から流れてきた種類の甘い青豆だ。パブロがぜひと言うので作らせた」
パブロ? と首を傾げたフェーデはすぐに気づく。料理長の名前だ。これまで何度も聞いていたけれど、うまく認識できていなかった。
料理の味も、絨毯の模様も、後ろに控えるミレナがペンダントをしていることも、前よりずっと鮮明にわかる。きっとこれまでの視界はもやのようなものに包まれていたのだろう。あれが普通だと思っていた。
ちなみにアベルだけは変わらない。
アベルの姿だけは最初からはっきり見えていたからだ。
次の青豆がスプーンにのせられ、フェーデは雛鳥のように口を開く。
こんなに甘やかされていいのだろうか、という気持ちには、もうならない。
……ならないというのは違った。
少しはなるけど、前ほどではない。
アベルは考える。
名前封じの魔法は解け、フェーデは自分の名を取り戻した。
しかし、まだ完全に定着していない。
名前とは本来、他人によって名付けられるもの。他人に呼ばれることで形作られるものだからだ。
かといって、周囲の人間がただ彼女の名を呼べばいいというものでもない。
それでも名前は定着するが、できれば避けたいことだった。
喩えるなら、他人の物語にいるフェーデをツギハギにして、パッチワークにするようなものだ。生きてはいけるだろうが、不安定で脆い心になる。
それらもすべて自分であるとしてなじませることができれば最終的には安定するが、誰もがそうなれるわけではない。
他人に求められるがまま振る舞い、病む者もいるのだ。
名前戻しの魔法を使うには、フェーデから自分について語って貰う必要がある。それは痛みを伴うことだし、魔法を使うのはアベルではなくフェーデ自身だ。
強引に内面を暴くような行いをすれば、かえって心を壊してしまうかもしれない。
どうしたものか。
その時、ミレナが口を開いた。
「フェーデ様。この青豆実は私の故郷らへんから来てるらしいんすよ」
「へぇ、そうなんですね」
驚いたのはアベルだった。
ミレナはむしろ北部の出身である、いきなり嘘をつきはじめた。
「ジャングルっていう、物凄く広い森があって。湿気ってて、川が流れていてですね。でかい蛇がいるんすよ」
どこかで伝記でも読んだのか、まるでそこで生活していたかのように冒険譚を語り始める。
「そこでアベル様が蛇に噛まれまして、毒がですね」
アベルもいることになっている。
ついでになぜか九死に一生を得ていた。
「なんとかそこでサーベルタイガーを倒したんですよ」
大嘘だ。
サーベルタイガーなど、見たこともない。
伝聞で聞いたことはあるが、実在するかも怪しいところである。
ミレナの舌が回りに回る。本人も面白くなっているようだった。
フェーデは目を輝かせ、話は盛りに盛られていく。
面白い、面白いが、だいたい嘘だ。
一部、ランバルドとの戦争中で起こったできごとが脚色されて使われているので、妙にリアリティがあった。
何だ、一体何をするつもりだ。