テラーノベル
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朝の七時、勝手口の戸が二度叩かれた。
開けると、榊さんがムギのリードを持って立っていた。
いつもと同じ時刻だった。いつもと違ったのは、眼鏡の奥の目が、赤く乾いていたことだけだ。
「眠れましたか」
先に聞いたのは、榊さんのほうだった。
「はい。少しだけ」
嘘だった。
天井近くの窓が白むまで、私はドアの前に座っていた。
榊さんの目が、私の左手に落ちた。
白い木綿の手袋。その下に、肌色の薄い手袋。どちらも、今朝おろした新しいものだった。
「替えたんですね」
「ゆうべのは、床に落ちましたので」
「……なら、いい」
榊さんは、上着のポケットから小さな水筒を出して、私に押しつけた。
「喉が乾く夜は、枕元に置いておいてください」
蓋を開けると、梅と生姜の匂いがした。
「あなたの味には、ならなかった。梅を潰しすぎた」
それだけ言って、榊さんはムギの頭を一度撫で、離れへ戻っていった。
私は、一晩起きていた人の背中を見送ってから、水筒をエプロンのポケットに入れた。少し、重かった。
*
七時半に、蒼真が食堂に下りてきた。
髭を剃り、アイロンの線が立った白いシャツを着ていた。
ゆうべ厨房で、壁に手をついて泣いた人とは、別の人の顔だった。
「おはよう、凛さん。コーヒー、濃いめで頼むよ」
「かしこまりました、旦那様」
カップを置く私の左手を、蒼真は一度も見なかった。
見ないようにしているのだ、と私にはわかった。
あなたは昔から、一番気になるものほど、目の端でしか見ない人だった。
お義母さまが、和館から渡ってきて上座に着いた。
「麗奈さんのお膳は、客間へ運んでちょうだい」
箸を取りながら、お義母さまは私に言った。
「あの人は、しばらく人前に出られる顔ではないでしょう」
蒼真が、新聞から顔を上げかけて、やめた。
*
客間の襖の前に膝をつき、お膳を置いた。
「奥様。朝食をお持ちいたしました」
襖が、内側から勢いよく開いた。
麗奈は、昨夜の白いドレスのまま、化粧も落としていなかった。
目の下で、マスカラが乾いて黒くひび割れていた。
「……あんたのせいよ」
かすれた声だった。
「あんたが来てから、全部おかしくなった。叔母さまたちの前で、私、あんな……」
付け爪の指が、お膳の縁をつかんだ。
味噌汁の椀が傾いて、畳に一滴こぼれた。
「覚えときなさいよ」
襖が、ぴしゃりと閉まった。
私は、畳の一滴を布巾で吸い取った。
奥様、と凛の声で呼んだ人に、心の中で答えた。
覚えていますとも。
あなたが熱の下がったばかりの子の名前を、ケーキの注文と同じ声で口にしたことも。
自分で跳んだ階段の痛みを、この人はもう、私に押された痛みとして覚えはじめている。
そういう人だということも、覚えておく。
*
日曜の夜、十一時だった。
厨房の片づけを終えたところへ、蒼真が下りてきた。
「凛さん、悪い。腹が減った。何か、簡単なものでいいから」
「お茶漬けでよろしければ」
「ああ、それでいい。ここで食べる」
蒼真は、配膳台の端に丸椅子を引き寄せて座った。
タブレットを立てかけ、画面を指で叩いた。
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
聞き覚えのある音楽が、厨房に流れた。
日曜の夜のネタ番組だった。
若手の漫才師が、二組ずつ出てくる。録画したものだろう。
鮭をほぐす私の手が、一瞬だけ止まった。
この家に嫁いでからの日曜の夜、陽翔を寝かしつけたあと、私はこの厨房で、この番組を見ていた。
遅く帰った蒼真が、隣でお茶漬けをすすりながら一緒に見た夜も、何度かあった。
配膳台の端に、湯呑みが二つ。あのころ、この厨房は、家の中で私が一番息をつける場所だった。
「凛さんも、見ていいよ。手、止めなくていいから」
蒼真は、画面を少しだけ私のほうへ向けた。
お茶漬けを出し、私は流しに戻った。
背中で、漫才師の声を聞いた。
画面の中で、ボケの男が、冷蔵庫に自分の靴を入れていた。
ツッコミの男が、それを出して、なぜか自分の靴をもう一足入れた。
喉の奥で、何かが跳ねた。
笑いは、いつも腹の底からではなく、鼻の奥から来た。
昔から、そうだった。
私は、流しの縁を手袋でつかんだ。
奥歯を噛み、息を止めた。
それでも、鼻の奥で、ん、と小さな音が抜けた。
焼けた喉が引きつって、咳になった。
二度、三度。口元を押さえて、咳き込んだ。
背中で、蒼真の匙の音が止まっていた。
「……今、笑った?」
「いいえ」
私は、咳の合間に答えた。
「喉が、少し。事故のあとは、笑うと引きつりますので」
「そっか」
蒼真は、また匙を動かした。
画面の中で、観客が大きく笑っていた。
「澪はさ、このコンビが好きだったんだ」
独り言のような声だった。
「笑う前に、必ず鼻が鳴るんだよ。ん、って。……変な笑い方だろ」
私は、振り返らなかった。
「さようでございますか」
凛の声で、そう答えた。
変な笑い方だと、あなたは昔も言った。
言ってから、いつも真似をして、自分で笑った。
蒼真は、お茶漬けを半分残して、立ち上がった。
「ごちそうさま。……おいしかったよ」
タブレットを脇に抱えて、厨房を出ていった。
十三段目は、鳴らなかった。今夜のあの人は、酔っていない。
酔っていない人が、わざわざ録画を持って下りてきたのだ。
半地下に戻ってから、エプロンのポケットの水筒を開けた。
冷めた梅と生姜のお茶は、少し酸っぱすぎた。それでも、焼けた喉の引きつれの上を、ゆっくり下りていった。
*
月曜日の朝、お義母さまが厨房に顔を出した。
「卵焼きは、今日から食堂で焼きなさい」
私は、フライパンを持ったまま振り向いた。
麗奈が、甘い匂いがつわりに障ると言ってから、三週間。
陽翔は厨房の隅で一人で朝食を食べ、私は換気扇の下で、こっそり卵を焼き続けていた。
「障るつわりなんて、最初からなかったのだから」
お義母さまは、それだけ言って、扇子を閉じた。
その朝、陽翔は三週間ぶりに、食堂の自分の椅子に座った。
甘い卵焼きを一切れ箸でつまんで、私を見上げた。
「りんさん。きょうの、いちばんあまい」
「……お砂糖は、いつもと同じですよ」
嘘だった。
甘酒を、ほんの少しだけ多く入れていた。
陽翔の目が、皿を置いた私の左手の手袋に、一拍だけ止まった。
それから、何も言わずに、二切れ目に箸を伸ばした。
*
火曜日も、蒼真は夜の十一時に下りてきた。
今度は、ネタ番組ではなかった。
厨房の入口で、私の背中に、何気ない声で言った。
「なあ。陽翔が、ぴょんたを洗濯機に入れたことあったよな。泡だらけで出てきて」
私は、皿を拭く手を止めなかった。
その朝のことなら、覚えていた。
泡まみれのうさぎを抱いて泣く陽翔と、洗濯機の前で、二人で声を上げて笑った。
「存じ上げません。私が参る前のことでございましょうか」
「……ああ、そうだったな。ごめん」
蒼真は、冷蔵庫から炭酸水を一本取って、戻っていった。
鼻の奥は、今夜は鳴らなかった。
笑えるはずのない話だった。
あの人は、確かめに来ている。
昔の私を一つずつ取り出して、この顔の前にかざしては、どこかが動かないかを見ている。
*
その夜、十二時を回ってから、半地下の部屋に戻った。
ドアの鍵を開け、灯りを点けた。
鍵は、出たときと同じに、かかっていた。
いつもの部屋だった。鉄のベッド。床のアイロンの焦げ跡。小さな鏡台。
鏡台の上で、目が止まった。
ブラシが、表を上にして置かれていた。
私は、いつも毛を下にして伏せておく。
毛先が埃を拾わないように。母に、そう教わった。
今朝、時間がなくて、ブラシに絡んだ髪をそのままにしていた。
短い黒い髪が三本。夜に取ろうと思っていた。
ブラシを手に取った。
毛のあいだは、きれいだった。
三本とも、消えていた。
コメント
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第41話、読み終わりました。 蒼真さんが録画した番組で「澪」の話をさらっと出してくるシーン、胃がキリキリしました。今の凛さんは「凛」でいるために、あの鼻の奥の笑い方を必死に♡♡♡ているのに…。それでも最後、ブラシの髪が抜かれていたのは背筋が冷えました。誰が? 何のために? 榊さんの梅生姜の水筒が、ほんの少しだけ救いです。続きが気になります。