テラーノベル
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六月。梅雨に入った。
ことはが、山の神社の資料を見つけてきた。本殿の裏から山道を登ると、奥の院があるらしい。地図にも載っていない小さな祠で、五十年以上誰も行っていないと書いてあった。
「今週の土曜、行こう」
ことはが言った。わたしは「うん」と答えた。
その日の放課後、透に言った。
「土曜、あの神社の奥に行く。来ないで」
「行かないよ」
そう答えた透を、わたしは信じたわけじゃなかった。
信じたわけじゃなかったのに、信じたふりをした。
◇
土曜日は、前の日まで雨だった。
朝には上がっていた。でも、山の空気は重くて、石段は黒く濡れていた。
本殿の裏から、道とも言えない道を登った。ことはが先頭で、みずきが最後尾。わたしは、いつもの真ん中。
三十分ほどで、祠が見えた。
小さい祠だった。屋根の半分が崩れて、苔に埋まりかけていた。祠の前には、五段ほどの石段があって、その手前が、崖のように切れ落ちていた。
「すごい」
ことはが、石段に足をかけた。
「気をつけて」
みずきが言った。
ことはは笑って、もう一段、上がった。
その石が、動いた。
◇
苔で見えなかった。石段のいちばん上の一段が、根元から緩んでいた。
ことはの足の下で、石が外側にずれた。ことはの体が、崖のほうへ傾いた。
みずきが叫んだ。わたしは動けなかった。
その瞬間、ことはの体が、逆に、押し戻された。
誰にも触られていないのに、まるで誰かに突かれたみたいに、ことはは祠のほうへ倒れ込んだ。石は、そのまま崖の下に落ちていった。
ずっと下で、音がした。
◇
わたしには、見えていた。
透が、ことはの隣に立っていた。
さっきまでどこにもいなかったのに。
彼は、両手をことはの背中に当てていた。当てて、押していた。
そして、そのまま、薄くなっていった。
肩から先が、透けた。祠の崩れた屋根が、彼の胸を通して見えた。
透は、わたしのほうを見た。
口が動いた。
声は、聞こえなかった。
でも、たぶん、こう言った。
――見ててくれて、ありがとう。
わたしは、手を伸ばした。
冷たい水の感触すら、もう、なかった。
◇
「……ことは、大丈夫!?」
みずきが駆け寄っていた。ことはは祠の前にへたり込んで、息を荒くしていた。
「だ、大丈夫。びっくりした」
ことはは、自分の背中に手を回した。
「今……誰かに、押された気がする」
そして、笑った。
「お父さん、かな」
みずきは、何も言わなかった。
ほんの一瞬だけ、わたしのほうを見た。
わたしは、何も言えなかった。
叫びたかった。違う、って言いたかった。ことはを二回も助けたのは、あなたのお父さんじゃない。名前があって、古い制服を着ていて、天気の話みたいに自分が消えることを話す人だった。
でも、言えなかった。
言ったら、ことはが立てなくなる。透は、そう言った。
◇
山を降りるとき、わたしは三人の最後尾を歩いた。
ことはが前で、みずきが真ん中で、わたしが後ろ。
いつもと違う並びだった。
わたしは、ふたりの間にいる人間だったはずだった。
今は、後ろにいる。
石段を降りながら、わたしは、ずっと右手を握っていた。
指の中を通っていった、あの感触を、忘れないように。
◇
初めてほしいと思ったものは、三か月で、なくなった。
それを見ていたのは、わたしだけだ。
誰にも、言えない。
――ひとりを除いて、たぶん。
湊未来
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管野アリオ
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コメント
1件
雨に濡れた黒い石段と、崩れかけた祠の空気感がすごく生々しかったです。透が消えながら「見ててくれて、ありがとう」と言うシーン、何度も読み返しました。ふたりの間にいたはずの「わたし」が最後尾を歩く切なさも刺さります。そして最後の「たぶん」――誰が気づいているんだろう。次が気になって仕方ないです。