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あれからわたしとユキは馬屋原先生との会話を忘れるべく、テレビやアイドル、最近読んだ漫画なんかの話をして、嫌な気持ちを楽しい気持ちで上塗りすることに努めた。
そんな他愛のない会話だけでも、わたしは日常を取り戻したような気がして、嬉しかった。
家のすぐそばの交差点でユキと別れて、わたしはようやく帰宅する。
鍵を開けて玄関を抜けると、ママの作るカレーの匂いが家の中に充満していた。
その匂いがまたわたしを包み込んで、ほっと一息、胸を撫でおろす。
鞄を自室においてダイニングに入ったところでパパが帰ってきて、みんな一緒に晩御飯のカレーを食べて、ドラマを観た。
なんてことのないそんな時間が、今はとっても愛おしくて。
それからわたしはあったかいお風呂にゆっくり浸かり、心のわだかまりごと洗い流した。
パジャマに着替えて自室に戻り、そのままアリスさんに教わったおまじないを唱えてから布団の中に潜り込んだ。
けれど、なかなか眠れない。眠れるわけがない。
気持ちの上では払しょくしたつもりだったけれど、電気を消して眠ろうとした途端、昨日の夢が思い出されて、再び不安がわたしを襲ったのだ。
アリスさんから教わったこのおまじないが、果たして本当に効くのだろうか。
確かに、今朝方はそのおまじないのおかげで数時間でも眠ることができたけれど、あんな話を聞いた後では、恐ろしくて眠るという行為そのものが難しかった。
もしかしたら、部屋が暗いというそれ自体が不安を掻き立てているのかもしれない。
そう思ったわたしは部屋の電気を再びつけて、改めてベッドに入って、頭の先まで布団を被った。
うっすらと漏れ入る灯りの中で、わたしは深呼吸して、心を何とか落ち着かせる。
しばらくそうしているうちに、ようやくウトウトし始めて。
「――アオイ!」
耳元で大きな声がして、わたしははっと目を大きく見開いた。
「……えっ」
果たしてわたしの目の前に立っていたのは、ユキだった。
ユキはわたしの両肩に手を乗せ、軽く揺さぶりながら、
「ねぇ、大丈夫? 起きてる?」
と声を掛けてくる。
わたしは今、自分が置かれている状態に頭がついていかず、何が起こっているのか、ここがどこなのか、必死になって考えを巡らせた。
ユキの姿は良く見知った制服姿で、その背後には並ぶ机や椅子に教卓、大きな黒板が見えていて、そこが明らかに教室であることを教えてくれた。
窓の外に顔を向ければ、明かり一つない、ただ真っ暗な世界が広がっている。
「なん、で……」
ここがどこなのか、気付くまでにそれほどの時間は必要なかった。
心臓が早鐘を打ち、全身から汗が噴き出してくる。
目の焦点が合わなくて、すべてのモノが二重にも三重にも見えてはっきりとしなかった。
嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ――!
なんで? どうして?
おまじないは? アリスさんのおまじないはどうしたの?
まさか、本当に、あのおまじないは効かなかったというのだろうか。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
どうしてこんなことになったの? わたしがいったい、何をしたっていうの?
わたしは頭を抱えて、嗚咽を漏らしながら涙を流した。
駄目だ、わからない。どうしたらいいのか、全然わからない!
うまく息が吸えない。吐き出すこともできない。
ただただ手足が震えて、今まさに恐怖がわたしの身体を支配しようとしていた。
「ちょっと、アオイ! しっかりして!」
再びユキの声が耳元で聞こえて、わたしはばっとそちらに顔を向けた。
不安そうな表情で、けれどわたしを心配するように、
「落ち着いて、アオイ。ね? 大丈夫。大丈夫だから」
言って、ユキは震えるわたしの身体を、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。
その温かさに包まれながら、わたしはユキの優しい匂いに次第に心を落ち着かせていった。
ユキの身体も小さく震えていたけれど、それでもユキは、わたしの為に耳元で、
「大丈夫だよ、安心して」
と何度も何度も、励ましの言葉をかけてくれた。
やがて身体の震えも止まり、涙に汚れた顔を制服の袖でふき取ってから、わたしは、
「――ごめんね、ユキ。ありがと」
「ううん、よかった。落ち着いた?」
「……うん」
小さく頷いてから、わたしは大きな息を一つ吐いた。
それからもう一度辺りを見回していると、唐突にユキがわたしのほっぺたを抓ってきた。
わたしは驚きのあまり一歩後ずさって逃げながら、
「な、なに? 痛いよ!」
小さく抗議すると、ユキは「ふんふん」頷いて、
「やっぱり痛いんだ」
と口にした。
わたしは首を傾げながら、
「なに? どういうこと?」
訊ねると、ユキは、
「だって、夢だって思ってたから。私もさ、さっき自分のほっぺたを強く抓ってみたの。そしたらめちゃくちゃ痛くって。まさかとは思ったんだけど、やっぱりこれ、夢じゃないんだ」
夢じゃ、ない? これが? ホントに?
わたしは胡乱に思いながらも、自分で頬を抓ってみた。
……痛い。確かに、痛い。
けど、じゃぁ、ここはどこ? どこからどう見たって、昨日見たあの夢と一緒なのに。
「――ねぇ、ユキ」
「ん?」
「わたしたち、どうやってここに来たの?」
「知らない」
ほぼ即答。
ユキは小さくため息を吐いて、
「わたしも、気付いたらこの教室に居たんだよね。自分の席で眠ってた。家に帰って、シャワー浴びて、そのままベッドに倒れこんだところまでは覚えてるんだけど…… ここ、どう見てもわたしたちの学校だし、うちの教室だよね?」
「だと、思う」
頷きながら答えると、ユキは腕を組みながら、
「……でも、窓の外を見ても真っ暗だし、物音ひとつしないし。びっくりして辺りを見回したら、同じように机に突っ伏して寝てるアオイがいるじゃない? それで慌てて声を掛けて起こしたってわけ」
「――そう」
同じだ、とそう思った。
昨日見た夢の時と全く同じ。
でも、頬を抓ると痛くて、現実的で。
痛かったから夢じゃないとは限らないかもしれないけれど、だからこそそれが余計に怖かった。
ここは、現実なの? それとも、夢?
「どうしよう、アオイ。とりあえず、他の教室覗いてみる? それとも、このまま外に向かってみる?」
その提案に、わたしは思わず「えっ」と答える。
「だって、このまま教室に居たってしょうがないでしょ? わたしたちの身に何が起こっているのか、調べなくちゃ」
その冷静な判断に、わたしはちょっと感心しながらも、
「でも」
と思わず言い淀んだ。
もしこの夢が昨日の夢と一緒なら、どこかにあの夢魔がいて、わたしに襲い掛かってくるかもしれないのだ。夢魔に見つかってしまったら、アイツはわたしの魔力を吸い上げる。それはつまり、わたしが死んでしまうということ。
そう考えるだけで足がすくんだ。この場から動きたくなかった。
「それとも、このまま教室で様子を見てみる? 誰か来るかもしれないし」
「誰かって――」
「まぁ、誰も来ないかもしれないけど」
曖昧な笑みを浮かべるユキの表情も、けれどよくよく見れば不安そうだった。
当たり前だ。こんなよくわからない状況に陥って、本当に平常を保っていられるはずがない。
ユキだって、本当はきっと怖いんだ。不安なんだ。
だから、早くこの状況を打開したい。
他の教室を覗いてみるか、外へ向かうか、この場でじっとしているか。
選択肢はこの三つだけ。
もし他の教室を覗いて夢魔と出くわすのは絶対に嫌だ。
けれど、このまま教室に居続けて、夢魔の方から探しに来られるのも怖かった。
なら、答えなんて一つしかない。
わたしは大きく頷いて、ユキと固く手を繋いだ。
それからユキの眼をじっと見つめながら、
「――ここから、出よう。いますぐに」
はっきりと、そう答えたのだった。