とても不思議だ。有希と彼は恋人同士で、母の話によれば、有希は、彼にぞっこんだったらしい。
だが、どういう理由か知らないが、それらの記憶は、すべて失われてしまった。つまり、有希は、彼のことを好きだった気持ちも覚えていない。
それなのに、彼のことが気になって仕方がないのだ。頭では忘れてしまっても、体の中のどこかには、彼を好きだった記憶が、今も厳然と残っているのかもしれない。
彼の辛そうな表情や、寂しげな背中が頭から離れない。うぬぼれているようだが、口では、あんなふうに言いながら、本当はまだ、彼は有希のことを愛しているのではないかと思えてならないのだ。
「主任にお客様ですよ。この前の高校生です」
沙也加にそう言われたときは、ぎょっとした。スマートフォンに何度も着信があったことはわかっていたが、ここまでやって来るとは思っていなかったのだ。
中本が、半笑いで言う。
「またかよ。あの子、もしかして主任のストーカーとか」
「まさか」
アイスコーヒーを作りながら、沙也加が言う。
「でも、かわいい子ですよね」
「かわいくたって男だぜ」
伸は、中本の言葉を遮るように、沙也加に向かって言った。
「それ、俺が持って行くよ」
話をしてすぐに、有希が、行彦の記憶を失っていることはわかった。冷たくあしらって、早々に追い返そうと思ったのだが、彼は、思いのほか手ごわかった。
伸との間に起こったことは、何一つ覚えていないはずなのに、どうしても話がしたいと言って聞かないのだ。
仕方がないので、閉店後に、パーク内の噴水の前で話すことにしたのだった。
有希が、自分に興味を持っているらしいことはわかった。男同士だということに、嫌悪感を持っているわけではないらしいことも。
正直なところ、彼が行彦としての記憶をなくしてもなお、伸は、彼のことを愛しいと思うし、激しく体を求め合った夜が忘れられない。
だが、彼の中に行彦がいない以上、このまま関係を続けるわけにはいかない。もしも彼が行彦の生まれ変わりでなかったならば、おそらく二人は、一生交わることもなかっただろう。
若い彼の人生を狂わせることなど出来ない。自分が愛したのは行彦だったのだから、これからも、その思い出を胸に抱いて生きて行けばいいのだ。
「とにかく俺は、もう君とは付き合えない」
二度と会わない。その思いを込めて告げ、その場を後にしたのだった。
二度と会いたくない。いや、会えない。あまりにも辛過ぎるから。どうかもう、俺の前に現れないでほしい……。
ベッドに寝転がり、有希は、フォレストランドの噴水の前で撮った写真を見返す。噴水や風景を撮った後の、安藤伸の連写。
うつむきがちに、こちらに向かって歩いて来るグレーのパーカーの尖った肩、風にふわりと舞い上がった前髪、こちらを見る切れ長の目、レンズから顔を背けるようにして、こちらにかざす長い腕。
この人は、なんでこんなに寂しそうなんだろう。恋人同士だったはずなのに、僕が倒れたときだって一緒にいたのに、どうして、もう付き合えないなんて言うんだろう……。
二人は、どんなふうに付き合っていたんだろう。恋人同士なんだから、キスくらいはしただろう。
有希は、彼の顔がはっきり写っている一枚を見つめながら、唇と唇が重なるところを想像してみる。なんだかドキドキするが、嫌な感じはしない。
キスはいいとして、それ以上のこともしていたのだろうか。付き合い始めてから日が浅いようだから、それはまだなのか。
でも、男同士で、いったいどんなふうに……。そう考えたとたん、からだの奥のほうが変な感じに疼いて、有希は、そのことに狼狽した。
重い足を引きずりながら、マンションに帰った。部屋に入るなり、今日もまた、ユウとの思い出が胸をえぐる。
苦しくて、とてもこの部屋にはいられない。ユウと愛し合ったベッドでなんか寝られるわけがない。
いい年をして情けないと思いながら、伸は、久しぶりに母に電話をかけた。友達のいない伸には、こんなときに頼れるのは母しかいないのだ。
「どうしたの? めずらしいわね」
聞き慣れた明るい声に、思わず涙ぐみそうになり、自分は、そうとう弱っているらしいと感じる。
「別に用事はないんだけど、これから、そっちに行ってもいいかな」
「もちろん。夕飯は、カフェのメニューでいい?」
「うん。ビーフシチューがいいな」
子供の頃から大好きなメニューだ。
「わかったわ。今夜はこっちに泊まる?」
「うん」
「そう。いつでもいらっしゃい」
電話を切ると、すぐに部屋を出た。実家までは、自転車で二十分ほどだ。
家に着くと、カフェは閉まっていた。玄関から入った伸は、迎えてくれた母に聞く。
「今日は休みなの?」
「そうじゃないけど、あなたが来るって言うから、今日は早仕舞いしたのよ」
「営業妨害しちゃったかな」
話しながら、居間に行く。
「いいのよ。どうせお客が途切れたところだったから。そんなことより……」
母が、伸の顔を見つめる。
「痩せたわね。顔色もよくないみたい。仕事、大変なの?」
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