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もはや弘樹への未練がプレス機で潰されたレンガよりも粉々になっている百子は、彼に背を向けてすたすたと歩き出す。だがその手を弘樹が掴んだ。
「離してくれない? もう帰りたいんだけど」
「お前に帰る家なんてないだろ! 家主の俺が帰っていいって言ってんだからありがたく思えよ! 先週のことは向こうが誘ってきて一瞬だけ魔がさしただけだ! それに、お前が最近家事とかをサボりだしたのが悪いんだろうが!」
理不尽が過ぎて一瞬二の句が継げない百子だったが、未だかつてないほどの低い声が口から滑り出る。一度出たそれは堰を切ったようにあふれ出した。
「誰のせいで帰れないと思ってんのよ! それに家主じゃなくて借り主でしょ? しかもヤッたのは先週だけじゃないよね? 半年くらい前から私とはできないって言ってたんだから、それから何回も彼女と会ってるでしょうに。その時期から私とのデートの約束もすっぽかすのは彼女と会ってたからでしょ? しかも私がいない間に、よりにもよって家でヤッてるなんて! そんな気持ち悪いことをした人のところにはいられません! もう私に関わらないで。彼女とお幸せに」
百子はそう言って弘樹の腕を引き剥がそうと力任せに激しく振って、彼の手から逃れた。後ろから弘樹の声が殴ってくるが、そんなものは無視するに限る。やっとの思いで電車に乗り、陽翔がくれた鍵で彼の家に滑り込む。玄関のドアを背にした百子は、ずるずるとその場にへたり込んだ。もう二度と顔を合わせるつもりも無かった弘樹に出会ったことよりも、彼に理不尽なことを言われた方が、百子の精神をずたずたに引き裂いていった。
「何で……! 何でほっといてくれないのよ! 私が本命なのが本当なら浮気なんてしないじゃないの! しかも家であんなことをしてるなんて……! 意味分かんない……! 何で向こうが悪いのに、私が悪いなんて言ってるの!」
玄関の床にぱたりぱたりと落ちた雫が、段々と大きなしみを作っていく。弘樹に会ったことで、浮気現場のあの生々しい光景が鮮やかに脳裏を駆け抜けていった。その時は余裕のある口ぶりだったとはいえ、あの光景を目にした時に、本当は蓋をしていた屈辱やら悲嘆やらが一気に襲いかかったのだ。陽翔がまだ帰ってこないのをいいことに、百子はこらえきれずに嗚咽を漏らした。こういう時に泣くと頭痛が襲ってくるのは分かっていても、とめどなく溢れる涙は止めようがなかったのだ。
百子を救う者はここにはいなかった。